【特集】『CHAGE&ASKA VERY BEST ROLL OVER 20TH』時代とともに進化し続けたCHAGE and ASKAの音楽
1999年にリリースされたCHAGE and ASKAのベスト・アルバム、『CHAGE&ASKA VERY BEST ROLL OVER 20TH』。
デビュー・シングル「ひとり咲き」をリリースした1979年から20年間の軌跡が凝縮されており、聴き返してみると彼らの音楽の多様性に改めて驚かされるが、2人の音楽の背景にはどのような物語があったのであろうか。
Text 佐藤剛
『CHAGE&ASKA VERY BEST ROLL OVER 20TH』
変わり続けた2人の音楽とそのルーツ
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CHAGE and ASKA(デビュー当時はチャゲ&飛鳥)が「ひとり咲き」でデビューを果たしたのは1979年8月のことだった。
スタイルとしてはフォーク・デュオだが楽曲は和のテイストが強いポップスで、当時としては前例のない独特の存在感があった。
「いとしのエリー」のヒットで知名度を上げたサザンオールスターズを筆頭に、新たな世代によって音楽シーンに大きな変化が訪れようとしている中、CHAGE and ASKAもまた産声を上げていた。
CHAGEとASKAの2人は地元福岡の大学に通う同級生だったが、それぞれ別のバンドで音楽活動をしていた。コンビを組むきっかけとなったのは、若手の登竜門となっていたヤマハポピュラーソングコンテスト(通称ポプコン)に出演したときのことだ。
チャゲがグランプリをとったんで九州大会に進めたんですけど、その時はチャゲは声が細いんで骨太く補強できるヤツが欲しいというんで一緒にやってみないか、となったんです。
その時は「チャゲ」というグループ名で出た。
タイプの異なる2人の歌声だったが、一緒に歌ってみると予想以上に混じり合い、そこから生まれるハーモニーは彼らの大きな武器となった。そして2年連続で入賞を果たしたことで、CHAGE and ASKAは才能を認められ、東京に出てデビュー・シングル「ひとり咲き」をリリースする。
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CHAGE and ASKAは従来のフォーク・デュオとは一線を画していたが、それは音楽だけでなくイメージ作りによる影響も大きかった。
海外のミュージシャンは譜面台を置いて歌わないという理由で、ステージから譜面台を取り払ったり、あるいは若者向けの雑誌に積極的に露出していったりした。
そうしたイメージ作りは新鮮さをもたらすだけでなく、常に進化していくという意識を、2人の心のなかに芽生えさせるのだった。
ヒット曲を出したいと考えていたASKAは、1980年のサード・シングル「万里の河」で、大陸歌謡をほうふつさせる、スケール感のあるメロディーとサウンドを完成させて、念願の大ヒットをものにした。
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しかしそれによって彼らの音楽がフォーク演歌と呼ばれるようになったため、そうしたイメージを払拭するために、今度はポップス志向を強めていく。
1980年台に入って打ち込みやシンセサイザーといったサウンドが最先端の音楽として浸透し始めると、CHAGE and ASKAもまたそれらをいち早く取り入れた。
そしてアコースティック・ギターのフォーク・デュオというイメージを刷新し、16ビートのダンスチューンや8ビートのロックチューンによる都会的なサウンドを打ち出していく。
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一方で、誰もやっていない新しいことをやろうという意識はライブにも反映され、1983年には国立代々木競技場第一体育館で初となるコンサート開催につながった。
その後、ASKAはソングライターとして1988年に光GENJIが歌う「パラダイス銀河」で日本レコード大賞に輝き、時代にあったヒット曲を連発していく。
1991年にはドラマ『101回目のプロポーズ』の主題歌となった「SAY YES」が200万枚を超える大ヒットを記録、それによって今度はしっとりしたラブソングを歌う2人というイメージが世間に定着していった。
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それから2年後、ASKAは「YAH YAH YAH」をリリースしたときに、そうしたイメージをこれで払拭できるはずだと思ったという。
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90年代中頃には活動の場を世界全体へと広げていく。
1993年にはモナコ音楽祭にアジア代表として出場し、翌年にはアジア・ツアーを実現、香港、シンガポール、台湾の3箇所で計6万人を動員した。
さらにその2年後にはMTVで放送されている人気番組「MTVアンプラグド」に、日本のアーティストとして初めて出演を果たす。
新しいことに挑戦していこうという意識とともに進み続けた結果、CHAGE and ASKAは90年代にもっとも世界的な成功を収めた日本のアーティストとなったのである。
時代とともにサウンドを変化させていったCHAGE and ASKAだが、そこには常に変わらないものもあった。そのひとつが日本人の心に馴染みやすいメロディーだ。
ASKAの音楽原体験は幼い頃に観ていたテレビで、中でも歌手の坂本九が大のお気に入りだったという。
「僕は坂本九とか九重佑三子、ダニー飯田とパラダイス・キング、あの辺がスゴイ好きで、歌を聴くと一回か二回ですぐ憶えちゃうんです。物マネして歌ったりとかしてましたね」
あの辺というのはカバーポップスや初期の和製ポップスのことで、親戚の前でそれらを歌ってはお小遣いをもらったりもしていたという。
その後も歌謡曲やグループサウンズといった邦楽を聴いて育ち、特に筒美京平や都倉俊一といった、若いポップス系の作曲家が書いた音楽がお気に入りだった。
ポップス調で日本的なメロディーの感覚、あるいは歌謡曲のエッセンスといったようなものが、幼少期のASKAの感性に深く刻まれたことが、のちの音楽に少なからず影響を与えているのは間違いないように思える。
一方のCHAGEは子供の頃から洋楽が大好きで、ビートルズ・コレクターの叔父の家に行っては、レコードを聴くといった日々を過ごしていた。
それだけにはじめてASKAと一緒に歌ったとき、ビートルズのハーモニーを思い出したという。
「ギター二本になるし、ユニゾンでもパワーがある。まして、今度は三度上にハモる。これにはシビレましたね。ああビートルズやと思った」
日本のポップスと歌謡曲で育ったASKA、そして洋楽とビートルズで育ったCHAGEだが、両者に共通していた音楽が井上陽水だった。
ASKAが井上陽水と出会ったのは高校3年のときで、それまで続けていた剣道をやめて何か新しいことを始めたいと思っていたとき、井上陽水の『氷の世界』と出会ったのだ。
それがきっかけで井上陽水のカバーからギターを始めると、すぐに自分でもオリジナルの曲を作るようになった。
CHAGEがギターを始めたきっかけも、中学のときに聴いた井上陽水だった。
ビートルズの音楽を徹底的に研究していた陽水の音楽に、CHAGEが惹かれたというのは自然な流れだった。
邦楽と洋楽という対称的な音楽的背景を持ちながらも、一緒に音楽を作り続けることができたのは、井上陽水という共通分母があったからかもしれない。
同時に異なるルーツがあることによって互いに刺激し合う存在となり、CHAGE and ASKAの音楽に多様性をもたらしたのではないだろうか。
2人の歩み、そしてそのルーツを知った上で、『CHAGE&ASKA VERY BEST ROLL OVER 20TH』を聴くと、1970年代~90年代にかけて日本のポップスシーンがどのように変化していったかを感じとることができるだろう。
余談だが、山口百恵と三浦友和の息子でシンガーソングライターの三浦祐太朗に取材したとき、CHAGE and ASKAがすごく好きだと答えてくれた。
井上陽水を分母にして誕生したCHAGE and ASKAが、その後の世代にとっての新たな分母となり、そうして日本の音楽は次へと受け継がれていっているのである。
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『別冊カドカワ 2000年 完全保存版430ページ CHAGE&ASKA』(角川書店、2000年)より引用
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