~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ ニューミュージックに挑戦した人たち【第一部 第3章 ⑤⑥】


第一部 第3章 中村八大に継承された希望
➀上京して日本コロムビアに入社
②嘆きと諦めをうたう日本のブルース 「別れのブルース」
③海のむこうにまで広まった服部メロディー
④ブギウギに反応して踊った細野晴臣
⑤横浜から登場した天才少女歌手の美空ひばり
⑥大陸生まれだったコスモポリタンと歌謡曲


 日本のポピュラー音楽史をたどりながら、“新しい音楽”を追究し、音楽シーンをリードしてきた音楽家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏。
今回は、第3章「中村八大に継承された希望」から後編、⑤横浜から登場した天才少女歌手の美空ひばり、⑥大陸生まれだったコスモポリタンと歌謡曲、をお届けします。社会の流れが変貌した戦後に登場した美空ひばり。そして作曲家として活躍する中村八大が、同じ時期にジャズピアニストとして頭角を現し始めました。いつも世界を視野に入れていた八大の挑戦は、すでにこの頃に端を発していたのです。

第一部 第3章
中村八大に継承された希望

 

⑤横浜から登場した天才少女歌手の美空ひばり

 

 笠置シヅ子のものまねが評判を呼んだ美空ひばりが、横浜の芸能関係者の間で話題になったのは、「東京ブギウギ」が爆発的にヒットしていた1948年の5月のことである。

 外見はどうみても小さな子どもなのに、大人も顔負けにブギウギのヒット曲を唄って踊る少女は、横浜の青空市場で魚屋を営む庶民の家に生まれた。そこから劇場関係者や芸人などのクチコミを通して、映画や音楽の制作に携わる関係者にまで、天才少女としての評判が広まっていった。

 美空ひばりが最初にステージでカヴァーした笠置シヅ子の楽曲は、服部良一が「東京ブギウギ」のひとつ前に書いた「セコハン娘」(作詞:結城雄次郎)だった。

 私の着物も、ドレスも、ハンドバッグも、ハイヒールも、恋人も、みんな姉さんのお古ばかり、大事なお父さんだって二人目のお父さん、だから私はセコハン娘という歌詞である。

 セコハンは英語のsecond handの略称で、当時は中古品を指して使われていた。そこはかとなく侘しさが漂よっているこの曲は、戦前の松竹歌劇団の時代から、ダイナミックな動きで歌って踊る笠置の持ち曲にはないタイプだった。あらゆる物資が不足していた現実を戯画化した内容で、笑いの要素より哀歌(エレジー)の要素がまさっていた。

  セコハン娘
  作詞:結城雄次郎 作曲:服部良一

  何日になったら お嫁に行けるか
  セコハン娘で 終るのかしら
  もしもお嫁に 行ったとしても
  二度目の花嫁と 人は言うでしょう
  だけど私 唯一つ
  お古でない 乙女の純潔は
  神様だけが ご存知なのよ
  (「セコハン娘」歌詞3番)

 笠置シヅ子と美空ひばりが同じ舞台に立ったのは1947年9月、場所は横浜国際劇場だった。その時に起こったちょっとした出来事について、服部が自伝の中でこのように記していた。

 

 ひばりは前座に『セコハン娘』を歌うといったが、笠置は『セコハン娘』を発売したばかりである。(ブギはまだ出ていなかった)同じ舞台で同じ曲を歌うのは困るということでひばりは『星の流れに』を歌った。これがひばりちゃんの初舞台で、かれんな少女が低音で歌う「こんな女に誰がした……」は、好奇心をもつ観衆にはうけた。
 当時、笠置シヅ子は、
「センセー、子供と動物(いきもの)には勝てまへんなぁ」
と述懐していた。
(服部良一『ぼくの音楽人生』中央文芸社 1993)

 

 それから同劇場の福島支配人がマネージャーに就いたことで、9月に浅草の国際劇場で開かれた「テイチク祭り」に、菊池章子の代役として出演した。そして彼女のヒット曲だった「星の流れに」を唄ったのである。

 この歌は街角で春をひさぐ街娼をテーマにしたメッセージ性の強い楽曲で、とても子どもが唄う内容ではなかった。しかし観客にはそうしたギャップもふくめて、とにかく好評だったという。

 そして1949年1月には有楽町の日劇の『ラブ・パレード』に出演を果たした。服部はそのときに3階の稽古場で、母親に連れられた美空ひばりと初めて会っている。

 

「この子は先生の曲が好きで、笠置さんの舞台は欠かさず見ています。どうぞ、よろしくお願いします」
 とあいさつされた。横で、ピョコンと頭だけ下げてニヤッと笑った少女に、ぼくは不敵な微笑みを感じた。この時分からすでに大物の片りんがうかがえたのか、ともかく、本舞台に現れたひばりの『東京ブギウギ』は歌い方も間奏の踊りも笠置にそっくりで、観衆はやれ『豆ブギ』だの『小型笠置』だのとやんやの拍手である。
 ぼくも舞台の袖で見ていて、その器用さと大胆さに舌を巻いた。
(服部良一『ぼくの音楽人生』中央文芸社 1993)

 

 灰田勝彦や橘薫、暁照子らのスターと同じ舞台に立った美空ひばりについて、日劇が開場してから50年に及んだ期間の全公演を記録した「日劇レビュー史」のなかでも、以下のように驚きが記されていた。

 

 前週に続いて白井鉄造作・演出だったが、第十景からフィナーレに至る三景が前回とそっくり同じなのには呆れた。灰田勝彦を中心に三つの恋物語をならべた構成だが 笠置ばりで「東京ブギウギ」を歌う“ベビー歌手”美空ひばりが大人を“食って”しまった。
(橋本与志夫『日劇レビュー史』三一書房 1997)

 

 その後も有楽座で行われたコロムビア大会『春のヒットパレード』に出演した美空ひばりは、日本コロムビアの実力者だった伊藤正憲文芸部長の目にとまった。そして3月に公開された東横映画『のど自慢狂時代』に出演したことによって、その名前が全国区になっていった。

 続いて8月公開の松竹映画『踊る竜宮城』にも出演し、主題歌の「河童ブギウギ」を歌って、B面ではあったが日本コロムビアからレコード・デビューを果たした。A面は戦前からのスターで、戦後も服部の「胸の振り子」のヒットで知られる霧島昇の「楽しいささやき」だった。

 美空ひばりが歌と演技で観客の心をつかんだのは、10月に公開された映画『悲しき口笛』に主演したことが決定打になった。

 敗戦間際だった1945年5月29日に行われたアメリカ軍の無差別空襲で、すっかり焼け野原になった横浜の町に流れる哀愁のメロディーをテーマにした主題歌の「悲しき口笛」(作詞:藤浦洸 作曲:万城目正)は、実際に家族全員で恐怖に震えて過ごした防空壕での記憶と重なっていた。九死に一生を得たその日は美空ひばりにとって、8歳の誕生日だったのである。

 それから4年後、小学6年生にしてプロの歌手として認められた美空ひばりは、ここから俳優としても天性の素質を証明していく。

 劇作家で小説家の井上ひさしは子どもの頃、孤児院に預けられていたことがあったので、「ぼくたちみたいに施設にいるような子供にとっては、夢のようなストーリーでした」と述べている。

 

ひばりさんが演じ続けたのは、不幸な環境にいながら、歌を歌って他人や自分を励まし、苦労に苦労を重ねたあげく、他人も自分も幸せになるというパターンでした。
(文芸春秋・編『美空ひばり―“歌う女王”のすべて』文春文庫 1990)

 

 美空ひばりは「悲しき口笛」がヒットしていた10月に、日本コロムビアと正式に契約を結んだ。それによって日本コロムビア時代の古賀政男の名曲や服部良一の作品を、カヴァーすることが出来るようになった。

 シングルとして発売したカヴァーのレコードは、1963年の「蘇州夜曲」が最初である。アルバムでは1965年の『この歌をひばりと共に』のなかで、古賀の「影を慕いて」と「男の純情」「人生の並木道」、服部の「湖畔の宿」を唄っている。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)

セコハン娘 / 笠置シヅ子(SP盤 1947年)

 

⑥大陸生まれだったコスモポリタンと歌謡曲

 

 中村八大は満州事変が起こった1931年に、ドイツの租界として開発された国際都市の青島(チンタオ)で生まれた。音楽家になるために中国から船と汽車を乗り継いで、単身で来日したのは小学4年生のときである。

 父は日本人学校の校長先生で厳格な人物だったが、息子の音楽面における才能を信じて、音楽の英才教育を受けさせるために東京へ留学させてくれた。

 しかし上野学園(後の東京藝術大学)附属児童学園に通うことになった八大少年が、東京で暮らし始めてから1年も経たない1941年12月8日、日本軍の真珠湾攻撃をきっかけにして太平洋戦争が始まった。

 当時の愛国教育によって育った子どもたちは、おしなべて軍国少年化していった。そのために外地の中国から音楽を学びに来た八大少年は、同級生たちから仲間外れにされた。

 

 戦況は風雲急を告げ、日本人全体が気が狂ったように竹槍などをつくっているころ、私たちのクラスで各人、将来の志望コースを紙に書いて提出することになった。予科練志望、幼年学校志望等々、クラス中の生徒が戦争のための未来を選んだ中で、私一人“作曲家になりたい”と書いた。
 このことはただちにクラス中にばれて、放課後、みんなから盛大なリンチにあった。
(中村八大『ぼく達はこの星で出会った』講談社 1992)

 

 ところで週に2回、水曜日と土曜日の午後、上野学園で行われていた音楽教育について、八大少年はこんな文章を残している。

 

 担当のピアノの先生は未婚の上品なお嬢さんで、ピアノのレッスンは楽しかった。しかし、時々かいま見る本科生のピアノレッスンは、それこそ死に物狂いのハード・トレーニングで、習っている娘さんの目はつり上がり、すさまじい形相でピアノを叩き鳴らしていた。
(中村八大『ぼく達はこの星で出会った』講談社 1992)

 

 そんな様子を目にした八大少年は、「音楽性のひとかけらも感じなかった」とも述べていた。また上野学園と並行して個人レッスンを受けることになった時にも、高名な先生が生徒を叱責する声を聞いて、高圧的な指導法に疑問を持ったことがあったという。

 しかし作曲の先生はなごやかだったので、休まずに通ってシンフォニーのレコードを聴き、楽譜を見ながら先生の話に耳を傾けた。また小学生ながらもミュージカルやレビューの面白さに魅入られて、ひとりで宝塚の公演や浅草オペラ、エノケン一座などの舞台に通うようになり、土曜の午後は上野学園に行かなくなってしまった。

 とはいえ1943年の秋以降になると日本では敵性音楽が禁止されたばかりか、同盟国だったドイツやイタリアのクラシック音楽でさえも、教育を続けていくことが不可能になってしまった。そのために家族が住む青島(チンタオ)に戻ることになった八大少年は、生涯を通して恩師と呼べる音楽家に出会うのである。

 ポーランドから青島に亡命してきたユダヤ系ドイツ人の音楽家、ダカール・ヘルスに学ぶ機会を得たのは、まさしく運命の導きだったのかもしれない。そこから始まった恩師との交流は短い期間であったが、生涯を通じて音楽として生きる道へとつながっていった。

 八大少年は子どものころから感じていた音楽のすばらしさを、ヘルス先生によってもう一度、一からていねいに教えてもらったのだ。

 

バッハの几帳面な旋律の交錯が再び心を打つようになった。ハイドン、モーツァルトのソナタの美しさ。楽しさ。逃げ出したくなるくらいきらいだったベートーヴェンのソナタすら、厳格な中にも深い愛情を感じるようになり、完璧な音楽の美の片燐を多少ながらでも理解できるようになった。
(中村八大『ぼく達はこの星で出会った』講談社 1992)

 

 まったく言葉が通じなくとも本質を理解できるまで、なんどでも諭すように教えてくれるヘルス先生を、八大少年は真の音楽家として心から慕い、そこで学んだ音楽の本質ともいえるものを、生涯を通じて忘れることはなかった。 

 父親の実家があった九州の久留米市近郊に家族で引き揚げてきたのは、日本が敗戦する数ヶ月前である。軍需工場があったことから久留米はアメリカ軍の空襲や機銃掃射によって、市街地の7割が消失する被害を出していた。

 しかし1945年8月15日、一家は家族全員で無事に終戦を迎えることができた。

 太平洋戦争が終わってからまもなく、連合国の軍隊が久留米にやって来て駐屯基地が作られた。宿泊施設ができるとアメリカの兵隊に向けたラジオ放送が始まった。そこで周辺の住民もアメリカ兵と同じように、ジャズやカントリー、映画音楽などを自由に聴くことができるようになった。

 こうして中村八大はクラシックからカントリーやジャズ、ポピュラー・ミュージックを自作の鉱石ラジオで聴いて、それらのエッセンスを自分のものにしていった。

 なお日本の占領下にある青島で生まれたにもかかわらず、八大少年は日本の歌謡曲にはほとんど馴染みがなかったという。詩人の谷川俊太郎との対談のなかで、子どものころからクラシックが一番好きで、小学校ぐらいからはヨーロッパ音楽とジャズ系統のポピュラーソングも気に入っていたと述べていたことがある。

 こうして生まれ育った環境と子どもの頃の音楽体験を知るにつれて、中村八大が服部良一に続いて新しい日本のポピュラーソングをつくり出したことは、音楽文化の歴史において必然だったのではないかと思えてきた。

 1946年から49年にかけて占領軍(GHQ)の統制下で焼け跡からの復興が始まると、唯一の放送局だったNHKのラジオからも、ニュース以外に娯楽番組が流れ始めた。

 GHQは民主主義を徹底させる手段として、ラジオ放送の充実に力を注いでいた。そこで戦時中は禁じられていた海外のポピュラー音楽が、『軽音楽の時間』や『ジャズのお家』といったレギュラー番組で聴けるようになった。

 そうした流れの延長で始まったのが『のど自慢素人音楽会』で、1946(昭和21)年1月の放送開始から人気番組になった。翌年にはタイトルを『のど自慢素人演芸会』と変更し、漫才やものまねなど、歌以外の芸を披露する素人も出演する機会を得た。

 これまでにも聴取者が直接マイクの前に立つ機会がなかったわけではないが、その場合、多くは選び抜かれた人たちだけのものであった。だが『のど自慢……』は歌のうまい人だけでなく、下手な人もふくめて誰もが参加できるというところに、GHQによる<民主化>の特徴があった。

 その頃の音楽では笠置シヅ子による一連のブギウギ・ソングを筆頭に、「銀座カンカン娘」や「青い山脈」などの服部良一作品が、誰もが明るく唄えるという面で若者たちに人気があった。

 旧制中学からの名門だった久留米市の明善中学に通っていた八大少年も、身体の奥に響いてくるブギウギのリズムとともに、強いエネルギーを放つ歌や音楽に新しい時代の息吹を感じていたのであろう。

 

 戦後も数年たつと生活のテンポもそれぞれに落ち着いてきたようだ。
 私自身の日々の生活も楽しく、目新しく、世の中は笠置シヅ子の一連のブギウギが全盛だった。
(中村八大『ぼく達はこの星で出会った』講談社 1992)

 

 そうした思いを存分に発揮できる場がやってきたのは、秋に開催された明善校の大文化祭だった。企画と運営はすべて学生たちの手で行われ、大文化祭は三日間にわたって開催された。会場は隣の久米高女の講堂を借り受け、諸先生方はすべてお客様待遇で、内容に一切口を出さず、本当の意味の学生がつくり出す学生のための文化祭であった。

 

 第一日目がクラシックのコンサート。私はベートーヴェンのソナタ『熱情』を演奏し、長い演奏曲などで観客の学生がアクビしそうになると、演奏の途中を省略して早々に終わらせて舞台を降りたのを覚えている。次に名物の混声合唱でヘンデルの『ハレルヤ』や、おなじみの『流浪の民』など大熱演だった。
 二日目の演劇の日は、凝り性の演劇グループが半年にもわたって練りに練った演劇で「ども又の死」などが演ぜられたと思う。この日私は裏方でステージの陰に置かれたピアノで情景に応じて即興で劇音楽を甘く、楽しく、悲しくやらされた。
(中村八大『ぼく達はこの星で出会った』講談社 1992)

 

 それまであまり興味がなかった日本の歌謡曲に接したのは、このときに行われた“のど自慢大会”だった。クラシックからポピュラーソング、歌謡曲から民謡まで、何でもありだったなかで、中村八大は生徒の全員が唄いたいと希望したすべての楽曲を、たったひとりで伴奏したのだ。

 好きも嫌いも関係なく、その頃に流行していた「泊り船」や「星の流れに」など、あらゆる歌の伴奏をピアノで弾いた。その際に自分でも服部良一の「セコハン娘」を弾き語りで披露したばかりか、笠置シヅ子の歌詞をそのまま唄うのではなく、「ラクダイ坊主」という男子生徒の替え歌にしたという。

 生徒の間ではもちろんだったが、並み居る先生たちからも喝采を浴びたのは歌詞のユーモアがよかったからであろう。すでにこの段階から中村八大はプロデューサーとして、その片鱗を垣間見せていたのかもしれない。

 次回は8月6日更新予定! 第4章「新しい歌と音楽が誕生する前夜(1951年〜1961年)の前編をお送りする予定です。

 

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Test:佐藤 剛
Edit:菅 義夫