~スタンダード曲から知る日本の音楽文化史~ 古賀政男の“懐メロ”を歌い継いだ矢野顕子【第一部 第2章 ①②③】


第一部 第2章 古賀政男の“懐メロ”を歌い継いだ矢野顕子
①自由奔放なピアノの弾き語り 「丘を越えて」
②早熟だった二人の天才少女 「津軽ツアー」
③ジャズピアニストを目指した中学生

④キャラメル・ママと雪村いづみの邂逅『スーパー・ジェネレイション』
⑤ネクスト・ジェネレーションの挑戦

 日本のポピュラー音楽史をたどりながら、“新しい音楽”を追究し、音楽シーンをリードしてきた音楽家たちの飽くなき挑戦の歴史を紐解く。執筆はノンフィクション作家としても活躍中の佐藤剛氏。今回は、第一部、第2章「古賀政男の“懐メロ”を歌い継いだ矢野顕子」より①自由奔放なピアノの弾き語り「丘を越えて」、②早熟だった二人の天才少女、③ジャズピアニストを目指した中学生、をお送りします。1970年代半ばの音楽シーンが垣間見えます。

第一部 第2章
古賀政男の“懐メロ”を歌い継いだ矢野顕子

 

①自由奔放なピアノの弾き語り
「丘を越えて」

 

 ぼくが古賀政男の作曲した「丘を越えて」という歌に出会って驚かされたのは、社会人になって3年目になる1976年の初夏のことだった。

 当時はひと昔まえの流行歌をまとめて、“懐かしのメロディー”と呼んでいた。それが定着して短くして“懐メロ”、もしくは“ナツメロ”というようになったのは、1960年代後半からになる。藤山一郎のオリジナルがヒットしてから、すでに30数年の歳月が過ぎていた。もちろんボブ・ディランやビートルズの洗礼を受けて、フォークとロックで育ったぼくらの世代が聴く音楽ではなかった。

 ところが早くから天才と噂されていた新人のシンガー・ソングライター、矢野顕子がデビューアルバム『JAPANESE GIRL』のなかで、これを独創的なアレンジのピアノ弾き語りでカヴァーしたのだ。

 センセーショナルな作品として発売前から話題になっていた新たな展開に『JAPANESE GIRL』は、およそ半分の収録曲をロサンゼルスでレコーディングした。参加したのは新進気鋭のロックバンドで、アメリカン・ルーツ・ミュージックを追求していたリトル・フィートで、そのためにA面はアメリカンサイドと名付けられた。

 ジャパニーズサイドとなったB面で演奏していたのは、はっぴいえんど解散後も日本語のロックという新分野で、ベースの細野晴臣を中心に可能性を探っていたティン・パン・アレーだった。ドラムは林立夫、ギターが鈴木茂、キーボードに松任谷正隆というメンバーである。

 そんな先鋭的なロックのアルバムでB面の3曲目に、不意を突くように聴こえてきたのが、なんとなくテレビで聞いたことがあるナツメロの「丘を越えて」だった。ピクニックの楽しさを仲間で共有する歌詞の「丘を越えて」からは、一緒に唄いたくなるような躍動感が伝わってきた。

 ぼくはそのヴァージョンを聴いて驚愕し、最後には欣喜雀躍(きんきじゃくやく)してしまった。自由奔放な解釈でピアノを弾きながら唄う矢野顕子からは、ソウル、ジャズ、アメリカンポップス、ブルース、クラシック、そして日本の伝統民謡など、あらゆるジャンルの音楽が感じられた。

 しかも2コーラスからはゲストヴォーカルにあがた森魚が加わって、デュエットになるという粋な展開になっていた。いままでにない新しい表現に遭遇したように思った。ちょっと現実離れした土着的な新しさにこそ、日本の新しい音楽の源があるのではないかと想像した。

 
  丘を越えて
  作詞:島田芳文 作曲:古賀政男

1 丘を越えて行こうよ
  真澄の空は 朗らかに 晴れて
  楽しい心
  鳴るは 胸の血潮よ
  讃えよ わが青春(はる)を
  いざゆけ
  遙か希望の 丘を越えて

2 丘を越えて行こうよ
  小春の空は 麗(うら)らかに 澄みて
  嬉しい心
  湧くは 胸の泉よ
  讃えよ わが青春(はる)を
  いざ聞け
  遠く希望の 鐘は鳴るよ

 それからぼくは矢野顕子のことを、宇宙人のような音楽家だと一目置くようになった。

なお「丘を越えて」は一曲のみ、その年の1月にアルバム『火の玉ボーイ』を発表した、鈴木慶一とムーンライダーズを中心とするバンドの演奏であった。かれらは前身だった「はちみつぱい」の頃から、あがた森魚のバックバンドを務めているという関係にあった。

 ところでレコード会社の専属作家制度は、フリーランスの作家が活躍した1970年代の半ばになると、すでに有名無実になりつつあったのだが、過去の作品の許諾については相変わらず対応が厳格だったという。

 したがって大胆過ぎる解釈でカヴーした矢野顕子のヴァージョンに対して、日本コロムビアレコードと古賀政男本人から、使用許諾が下りるのかどうかはかなり微妙だという話が、関係者から事前に漏れ聞こえていた。

 こんなにもいいテイクが完成しているのに、古い制度のために発売できなくなるかもしれないと聞かされて、どうしてそんな理不尽なことになるのかと、仕組みをよく知らなかったぼくは気をもむことになった。

 しかし「丘を越えて」の場合は案ずるより産むがやすしで、大御所の古賀本人が気に入ってくれたらしく、スムーズに許諾が下りて発売することができた。

 

スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(1)スタンダード曲から知る日本の音楽文化史(2)

JAPANESE GIRL / 矢野顕子(1976)

 

②早熟だった二人の天才少女
「津軽ツアー」

 

 ぼくは1974年に大学を出て音楽業界に入ったが、ちょうどそのころから“ニューミュージック”という言葉を、ときおり目にするようになっていた。しかし定義が曖昧なまま使われているうちに、1年もすると“ベタ”な歌謡曲に対抗すると思われるものが、まとめてニューミュージックと呼ばれるようになった。

 それまではフォークやロックと呼ばれていたジャンルの音楽だけでなく、自作自演によるヤマハのポピュラーソングコンテスト(ポプコン)出身者の楽曲や、歌謡曲でデビューしていた太田裕美の楽曲なども、そこにくくられるようになった。そんな流れになってきた時期の音楽業界に入ったことで、ぼくは荒井由実と矢野顕子こそがニューミュージックと呼ぶにふさわしい、突出した才能の持ち主なのだということにこだわった。

 村井邦彦のプロデュースによって発見された荒井由実は、ティン・パン・アレーと一緒に組んだ『ひこうき雲』(1973)と、『MISSLIM』(1974)という二枚のアルバムを発表したことで注目を集めていた。

 いずれも都会的でクールなセンスに統一されていただけでなく、緻密かつ斬新なロックサウンドによって、それまでの歌謡曲にはありえなかった世界が出来上がっていた。しかも荒井由実のヴォーカルは特徴あるノン・ビブラートで、日本的なユリもこぶしもなかったので、きわめて新鮮だった。

 アルファミュージックの創立者で作曲家だった村井邦彦が、作詞家の山上路夫と会社を起ち上げたときのことをこのように回想している。
 

「作家の発想で自主的に曲を作り、それを売り込む」という欧米の音楽出版社と同じやり方の出版社を作りたい、との思いで一緒に創業したのがアルファミュージックだ。欧米にはスタンダード曲という多くの人が長年歌い続ける曲がたくさんあるのに、なぜ日本には懐メロあってもスタンダード曲がないのか。山上さんとはそんなことを話し合った。
 ちょうどその頃 美空ひばりの「真っ赤な太陽」事件があった。黛ジュンが「真っ赤な太陽」をカヴァーしたら、美空さん側が大反発して黛ジュン盤は発売できなくなった。世間の認識は美空ひばりの「真っ赤な太陽」で、作詞・吉岡治、作曲・原信夫の「真っ赤な太陽」ではないのだ。アメリカだったら コールポーターの「ナイト・アンド・デイ」と言われるのに。そんなこともあって日本でもスタンダード曲をと思って作った「翼をください」(71年)が、僕と山上さんの夢をかなえてくれた。
(村井邦彦『村井邦彦のLA日記』リットーミュージック 2018)

 

 荒井由実は最初から商業的に成功したわけではないが、音楽面での特徴とリンクしたヨーロッパ調ジャケットが効果的だった『MISSLIM』が、セールスを大きく伸ばしていった。後にスタンダード曲になる「瞳を閉じて」「やさしさに包まれたなら」「海を見ていた午後」「12月の雨」といった佳作が収録されていたので、徐々にアルバムとして傑作だという評価が高まった。そのことで『ひこうき雲』の再発見にもつながり、ユーミン・ブームの下地が醸成されていった。

 1974年に音楽業界に入ったぼくも『MISSLIM』で荒井由実を知ったのだが、みずみずしい才能のきらめきが眩しいように感じられた。そこには二ューミュージックと呼ぶにふさわしい、音楽面での独創性があるとも思えたが、それを支えていたのが細野晴臣であった。
 

僕は細野のベースが大好きで 可能な限り自分の書いた曲の録音に参加してもらった。いくつかある「翼をください」の録音の一つでは、細野がベースを弾いている。ユーミンのアルバム『ひこうき雲』(73年)を作るときも、真っ先に細野に依頼した。録音にはキャラメル・ママというバンド名がクレジットされているが 細野(b)、林立夫(ds)、松任谷正隆(kb)、鈴木茂(g)が演奏した。そこでユーミンと松任谷が出会い、20世紀後半の日本の音楽文化を代表するような作品群を一緒に作ることになる。
(村井邦彦『村井邦彦のLA日記』リットーミュージック 2018)

 

 そこから2年遅れで登場した矢野顕子の音楽もまた、ニューミュージックと呼ぶにふさわしい画期的なアルバムだった。そして日本録音におけるミュージシャンには、細野晴臣のティン・パン・アレーが参加していた。

 だからぼくがインタビューした矢野顕子の記事を公開する際にも、あえて自分のこだわりをタイトルにつけてみることにした。ほんとうの意味でニューミュージックと呼べるのは、その言葉の通りに“新しい音楽“であるべきだと、若気の至りと思われてもいいから、はっきり言っておきたかった。

 「矢野顕子の音楽こそ“ニューミュージック”と呼ぶにふさわしい」という記事は、こんなふうに始まっている。
 

 何かと重宝されているようで、今日では多くの人が無造作に使っている。けれども、一体何が“ニュー”なのかは、未だに定かではない。それでも各人各様に“ニュー”の感覚を持たせてくれる音楽なら許せるとしても、どんな角度から見てもなんら昔から代わり映えもしない音楽を“ニュー”呼んでいる現状はどこか奇妙だ。
 この現状を内側から打開する力を感じさせるのが、矢野顕子のデビューアルバム「JAPANESE GIRL」である。
(『週刊ミュージック・ラボ』1976年8月2日号)

 

③ジャズピアニストを目指した中学生

 

 3歳からピアノを弾くようになった矢野顕子(当時は鈴木姓)は、初めは音楽教室に通ってクラシックを習っていた。しかし小学校6年の時にジャズを知って、自己流のピアノを弾くようになったことを機に独学に移行した。

 中学時代にはシンフォニーを作曲してみたこともあったし、GS(グループ・サウンズ)ブームの中でザ・スパイダーズを追いかけたこともあったらしい。ジャズ喫茶でレコードを聴いて勉強し、譜面なしで演奏できるように練習した。

 そしてジャズピアニストになるために、3歳から中学までを過ごした青森から上京し、軽音楽部が盛んだった青山学院大学の高等部に入学した。
 

 当時、高校で軽音楽部があるのは青山学院だけだったんです。入学式が終わるやいなや音楽室に向かい、入部しました。でもすぐに「違うかも」と。
(『朝日新聞デジタル』2016年11月24日「10代、ジャズミュージシャンをひたすら目指して 矢野顕子」

https://www.asahi.com/and_w/20161124/23147/

 

 その頃はロックに勢いがあって軽音楽部の先輩だった林立夫や小原礼、後藤次利などはスタジオミュージシャンの仕事を始めていた。そのバンド仲間だった鈴木茂は細野晴臣に誘われて、高校生ながらもギタリストとして、はっぴいえんどに参加してプロになった。
 

 とにかくジャズに関係のあるところに行きたくて、でもその前に高校は出なきゃいけない。だからここに来た。すべてはプロの音楽家になるための手段だったんです。
 そんな中、1年生のときに学内で作曲コンクールがあり、ベースとドラムと組んだピアノトリオで自作曲を発表、優勝しました。青学は初等科から上がってきた「内部」の人と、私のように高校受験で入ってきた「外部」がいて、微妙に温度差があってね。外部の、しかも1年の女の子が優勝をかっさらった、っていうのですごく話題になった。「一体、何者だ?」って(笑)。そして、同級生たちが「いい曲だね」とか、私の存在が「励みになる」とか、ものすごく褒めてくれたんです。それまでも褒められたことはありましたが、直接に反応を感じたのは初めてだったし、自分のしたことが誰かの励みになるということがうれしかった。音楽でプロフェッショナルの道を歩む、それが自分にとって天職なんだと確信した出来事でした。
(『朝日新聞デジタル』2016年11月24日「10代、ジャズミュージシャンをひたすら目指して 矢野顕子」)

https://www.asahi.com/and_w/20161124/23147/

 

 東京の青山にあった『ロブロイ』は日本航空のパーサーでありながら、アウトローでもあった安部譲二(のちに作家)が経営し、夫人が店を仕切っていたジャズクラブだった。父親に連れられて最初にロブロイに矢野顕子が現れたのは、青山学院高等部一年の時だったという。

 父が青森で医院を開業していた関係上、彼女は杉並にある祖母の家に住んで、そこから高校に通っていた。しかしジャズピアノが弾きたかったので、夜のレストランでピアノを弾くアルバイトを始めた。そして仕事終わりの深夜にロブロイに顔を出すようになったのだ。
 天才少女が現れたことについては、ロブロイを仕切っていたママの遠藤瓔子が自伝の中で、次のように経緯を記していた。
 

 彼女にとっての魅力は、なんと言っても真夜中から始まるセッション。山下洋輔や菅野邦彦という才人とセッションできるんだから、おもしろくって仕方がない。
 ところが、彼女がセッションに加わるようになると、男達は大騒ぎ。
 なんてったって十五歳だもんね。
 そのくせピアノ弾かせたら、ほかの女性ピアニストなんか軽くぶっ飛んじゃう。
 女のジャズなんかジャズじゃねえよ、と言ってた連中が、アッコちゃん,アッコちゃんとチヤホヤしだした。
(遠藤瓔子『青山「ロブロイ」物語―安部譲二と暮らした七年間 瓔子と譲二とジャズ』世界文化社 1987)

 

 しかしそれが連日のことになると、対外的にもなにかと問題が出てきた。そこで彼女は二学期で高校を退学し、父の配慮で安部譲二の家に住まわせてもらうことになり、遠藤瓔子にしつけられて自分の道を歩み始めたのである。

 その後に彼女は作・編曲家の矢野誠と結婚して長男を出産したために、一時的に生活のペースが変わった時期もあったが、そこから復帰してアルバム『JAPANESE GIRL』を作った。それがミュージシャンたちの間で評判になり、ティン・パン・アレイ(キャラメル・ママ)のコンサート〈パラダイス・ツアー〉にも参加したことで、アーティストとして好感を持って迎えられたのである。

 矢野顕子は忽然と現れたニューミュージックの担い手にふさわしく、自分のアルバムのことを笑顔で、「音楽を好きな人が聞くべきだと思う」と語ってくれた。自信に満ちたその言葉は、前途洋洋だと思えた。

 しかしインタビューの最後にひとつだけ、彼女は不安な気持ちを漏らしていた。先々に日本で音楽活動を続けていくことが、もしかして不可能になるのではないかという、意外に思える心配事を抱えていたのである。

 

 「いまの日本人はあまりに怠惰だから……。私たちは無理に、ムキになったり卑屈になったりしてるわけではないのに、雑誌等の紹介のされ方にしてもキワモノ扱いされたりする。アメリカではそれがオリジナリティーのあるものなら、何をやろうと受け入れてくれる。日本人をより意識するし、もっときびしい状態に自分を置ける。アメリカで生活したほうが良いように思っている」
(『週刊ミュージック・ラボ』1976年8月2日号)

 

 彼女が言うように日本人が怠惰であることや、表現というものに対して狭い了見しか持っていないことは、そのまま日本の音楽状況に対する痛烈な批評であった。それはかなり的を射るものであったから、ぼくもその言葉に思わず深くうなずいた。

 そしていつか音楽活動の場をアメリカに移すことが必要になったとしら、彼女はそれをすぐさま実行するだろうと思った。だからぼくは記事の最後に言わずもがなことを承知で、こんな言葉を書き足したのだった。
 

 そう、日本の音楽状況がまだまだダメなのだ。ともあれ1976年に矢野顕子という世界的なスーパーガールが日本から登場したことの意味は大きい。
(『週刊ミュージック・ラボ』1976年8月2日号)

 

 1970年代のニューミュージックを代表するアーティストに成長した矢野顕子は、1980年にはYMOのワールド・ツアーにキーボード奏者として参加した。その後は1990年代になってからニューヨークに移住し、現在も同地を拠点にして音楽活動を継続している。

 

※つづきは、7月9日更新予定! お楽しみに。

 

 

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Text:佐藤剛
Edit:菅義夫