【その歌の理由 by ふくおかとも彦】 第17回 The Buggles「Video Killed the Radio Star(ラジオスターの悲劇)」①

歴史的名曲

 

今回取り上げる曲は「Video Killed the Radio Star(ラジオスターの悲劇)」。“The Buggles”という英国のアーティストのデビュー曲で、1979年9月7日にリリース。時代を先取りしたシンセサイザー・サウンドとキャッチーなメロディ&歌詞はたちまちリスナーを魅了して、10月20日には全英シングルチャート1位を獲得しました。レーベルのIslandにとっても、初の1位シングルだったそうです。その他、米国では最高40位ながら、世界16カ国で首位、日本でも洋楽チャートでは1位、全体でも25位という、インターナショナル・ヒットとなりました。「ラジオスターの悲劇」という邦題もなかなかよかったですね。直訳すると「ビデオがラジオスターを殺した」となりますが、本来「video」は「テレビ画面に表示されるもの」という意味。日本で「ビデオ」というと「録画したもの」や「ビデオデッキ」を指すので、ちょっと違う。「テレビがラジオスターを殺した」ということなので、邦題に変に「ビデオ」という言葉を使わなくてよかった。

そして、それから約2年後、あの「MTV」の米国での開局時、1981年8月1日の0:15から第1曲目としてオンエアされたのがこの曲のミュージックビデオ。タイトルをそのまま読めば「これからはテレビの時代だ」とも解釈できるけど、実はテレビを責めている内容の歌詞だという、なかなかヒップな選曲だったかなと思います。

そんなエピソードも含めて「ラジオスターの悲劇」は、まさに80年代の幕開けを告げた名曲として、歴史にその名を刻みつけました。

バグルズはトレヴァー・ホーン(Trevor Horn)とジェフ・ダウンズ(Geoff Downes)のデュオ(厳密に言うと最初はトリオ。それについてはのちほど…)です。トレヴァー・ホーンはこのあと、プロデューサーとして“Yes”の「Owner of a Lonely Heart」や“Art of Noise”や“Frankie Goes to Hollywood”などを手掛け「ZTTレーベル」を立ち上げるなど、華々しい活躍をしますし、ジェフ・ダウンズはキーボード奏者として、このあと“Yes”に加入し、さらに“Asia”を立ち上げ大成功を収めます。そんな二人の出発点がバグルズでした。

デビュー曲「ラジオスターの悲劇」の大ヒットが、その後の彼らの人生を決定づけたのは間違いありませんが、その時点でトレヴァーは30歳、ジェフは27歳。決して若くはありません。そう、やはりこの名曲の誕生までには、さまざまな必然と偶然、つまり「その歌の理由」があったのです。

 

その歌の理由_01

 

トレヴァー・ホーンの音楽遍歴

 

トレヴァーは1949年7月15日生まれ。イングランドの東北地域にあるダラム(Durham)という街の出身です。4歳の時から乱視でメガネをかけ、運動も学校の勉強もあまり得意ではなかったけれど、音楽にだけは強い関心を持ちました。5歳で、家にあったレコードから、ビッグバンドに夢中になり、11歳で、学校や地域のオーケストラでダブルベースを弾き始めます。ロックンロールは単純過ぎて好きじゃなかったけど、ビートルズやバカラックの陰影のある曲は大好きでした。ビートルズが演奏する姿をテレビで観て、自分もバンドをやりたい、これ以上価値のある仕事はないと感じたそうです。2022年に出版されたトレヴァー・ホーンの自伝『Adventures in Modern Recording From ABC to ZTT』に「他のみんなも音楽が好きだった。だけど僕は音楽を“愛して”いた。それは“感情を見ている(seeing emotions)”ようだった。“ある場所”を視覚化してくれるようだった。言葉では説明できない“ある場所”を」という一節があって、ちょっとグッときました。

15歳のある日、ボブ・ディランを知って感動します。「Like a Rolling Stone」のシングルは人生で最も多くターンテーブルに乗ったレコード、というくらい夢中になりましたが、やはりディランの詩の世界に魅せられたようです。ただ、1966年5月、初めてディランのライブを観た時は、何よりその音の良さに驚いた、というのがトレヴァーらしい。既にオリジナル曲をつくり始めていましたが、ディランを観たあと、2トラックのテープレコーダーに、2つのマイクを同時に入力できる簡単なミキサーを自作。(ディランがやっていたように)1つのマイクをボーカルに、もう1つをギターに向けて録音すると、お父さんが「悪くない」と言って、レコーディング・スタジオを3時間分プレゼントしてくれました。それで初めて「overdub」というものを経験します。マルチトラック・テープレコーダーで、既に録音済みの音に新たな音を重ねることです。自分でベースを重ね、ピアノを加え、ボーカルをダブルにしました。自作曲がちゃんとしたレコードのようになって、トレヴァーは大満足。音楽プロデュースの道への、これが第一歩だったと言えるかもしれません。

もちろんまだまだ先は長い。19歳になるとトレヴァーはベース奏者として、ホテルのラウンジでの演奏とか、いわゆる“バンドマン”的な仕事をいくつも渡り歩くことで、糊口をしのぐようになります。数年そういう生活を送るうちに、出会ったのがティナ・チャールズ(Tina Charles)という女性シンガーです。彼女は1976年にシングル「I Love to Love(But My Baby Loves to Dance)」で全英1位を獲得しますが、Bidduという、ディスコ・サウンドの開拓者のひとりと言われるプロデューサーの手になるそのバッキングトラック(カラオケ)のテープをティナからもらったトレヴァーは、チャートの1位になるのはこういうシンプルでクリアなものだということに感じ入り、自分もヒットレコードをつくりたい、と強く心に決めたそうです。もう関心は、演奏するよりもレコード音楽をつくることに移っていました。

その頃、古くからの友人で、シンガーかつギタリストのロッド・トンプソン(Rod Thompson)から、ブルース・ウーリィ(Bruce Woolley)を紹介されます。二人は“R.B. Zipper”という、サイモン&ガーファンクルのようなポップ・フォーク・デュオとして活動していて、プロデューサーを必要としていました。トレヴァーは喜んで引き受けましたが、歌を1行録音するのに4時間かけてしまったり、悩んで鉛のように固まってしまったりと、まだまだ問題ばかりの修行時代でした。

ジェフ・ダウンズと出会ったのも1977年頃です。ティナに依頼されて、トレヴァーは彼女のバックバンドを編成したのです。ギターはブルースに依頼し、キーボード奏者はオーディションを行い、17、8人の中から選んだのがジェフ・ダウンズでした。

 

その歌の理由_02

 

「ラジオスターの悲劇」制作裏話

 

その後も、試行錯誤が続きますが、1978年になっても、これぞと思えるものをつくった実感がありませんでした。また、他人の曲ばかりに関わってきましたが、久々に自分自身の作品もつくりたいと思うようになりました。そしてある日思いついたのが「Clean, Clean」という曲の歌詞です。この曲はのちに、バグルズの1stアルバム『The Age of Plastic』に収録されることになります。

歌詞? 意外ですよね。“サウンドの魔術師”的なイメージのあるトレヴァー・ホーン。サウンドやメロディを中心に考える人だと思っていましたが「ある曲を他と差別化するものは歌詞だ」と彼は言います。その頃の彼はクルマに乗るといつも、ジョニ・ミッチェルを聴いていたそうです。『Court and Spark』、『Blue』、『Ladies of the Canyon』といったアルバムの詩を高く評価しています。ボブ・ディランの詩の世界に魅せられてから、そこは一貫していたんですね。実は「ラジオスターの悲劇」も彼は歌詞から考えていくのです。

「Clean, Clean」の歌詞をブルースに見せると、彼はすぐさまメロディをつけてくれました。トレヴァーはそれがとても気に入り、それ以来ブルースのアパートに入り浸り、そこにジェフも加わって新しい音楽を模索する日々が始まりました。この時バグルズが誕生したと言ってもいいでしょう。

だけど、3人の最初の共同作品はバグルズのレパートリーにはならない「Baby Blue」という曲でした。なんらかの経緯で、この曲はダスティ・スプリングフィールド(Dusty Springfield)がレコード化しました。有名なシンガーに曲を採用されるなんて初めてのことでしたから、喜んで提供しましたが、アイデアをふりしぼってつくったデモのトラックは自信作だったのに、できあがったレコードのサウンドは耳触りがいいだけの平凡そのものでガッカリ。全英61位という成績でした。

こうなったらどうしても自分たちのレコードを出したい。トレヴァーはコンセプトから考えました。コンピュータに支配された未来社会。レコード会社によって地下室で発明されたアンドロイド・バンド“The Buggles”、それがオレたち。「Buggles」の「bug」は虫。「Beatles」のシャレです。そして最初の歌詞を思いつきます。「I heard you on the wireless back in ’52(あれは1952年、私は無線で君の声を聞いていた)」。これは彼のSFへの愛と50年代のラジオ・コメディ番組(『The Goon Show』とか『Educating Archie』が人気だったそうです)への郷愁が合わさった気持ちだそうです。

数日後、散歩していたときに続きの2行が浮かび、そのあとの「They took the credit for your second symphony(奴らは君の第2交響曲を横取りしたんだ)」からの一節は、英国人SF小説家のJ.G.バラード(James Graham Ballard)の「The Sound-Sweep」という、音楽が奪われた未来世界を描いた小説から拝借したようです。そして、フッと「Video killed the radio star」というフレーズが“降りて”きたのです。

ところが、ようやく構想が固まってきたと思ったら、突然、ブルースが抜けると言い出しました。CBSレコードが彼に興味を持ち、彼は早く売れたかったのでしょう。やがて彼は“Bruce Woolley and the Camera Club”というバンド名で動き始めます。そこではトーマス・ドルビー(Thomas Dolby)がキーボードを担当していました。

3人の中ではブルースが断然歌が上手かったので、トレヴァーはショックだったと思いますが、この曲を形にするという強い意志は少しも変わりませんでした。しかし、お金がまったくなかった。しっかりしたデモをつくるのに、トレヴァーはティナ・チャールズに投資を打診しました。「貴方が歌うんじゃないでしょうね?」。ティナは彼のボーカル力を全然認めてなかったのです。トレヴァーは私情を抑えて、ブルースにデモのボーカルを依頼しました。

彼らはデモ制作のため、16トラックのスタジオを1日借りました。ポール・ロビンソン(Paul Robinson)という優秀なドラマーを呼んで、トレヴァーとジェフ、それぞれに吸収してきた音楽センスとノウハウをすべてつぎ込んで。でもまだ“打ち込み”(プログラミング)はできなかったので、すべて手弾きで。サビの歌はブルースとティナに任せ、バース部分はトレヴァーが歌うことにしましたが、ジェフがラジオの音声のようにしようと提案し、古い「Vox C30」というアンプにつないだハンドマイク(バスガイドが使うような?)で歌うと、それらしくなりました。サビはトレヴァーの案で“60年代のアメリカ人のように”歌ってもらうと、その対照性がバッチリでした。

できあがったデモを聴いて、トレヴァーはこれこそが自分のやりたかった音楽だと実感し、同時に、この曲は絶対にヒットするという確信を抱きました。

だけど、もちろんまだその確信は、バグルズの二人以外、誰にも共有されていませんでした。

…つづく

 

<紹介楽曲>

その歌の理由_03


The Buggles「Video Killed the Radio Star(ラジオスターの悲劇)」 

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参考文献

・『Adventures in Modern Recording From ABC to ZTT』

Trevor Horn 著
Nine Eight Books(2022年発行)

 

 

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