中島みゆき『相聞』ライナーノーツ

ニュー・リリース

中島みゆきの通算42枚目の新作アルバム「相聞」は“愛おしさ”に溢れた“無私”なアルバムである。

“愛しい”という感情は若い頃には持ちにくいものではないだろうか。“好き”とも“愛してる”とも違う。時には“嫌い”や“憎い”という否定的な気持ちまでも昇華してしまう透明で純化された感情。対象になるのは、友人や恋人、あるいは、敵や味方という具体的な相手に向けられただけではない。過ぎてきた時間やかつて存在した場所、もはや手に入らない、戻ることの出来ないものに対して生まれてくる、“懐かしさ”を超えた感情である。
 若い頃は、どうだろう。望むものは手に入る、行こうと思えばどこにでも行ける、それがどんなに非現実的であろうと、何とかなるという漠然とした期待感に支えられている。相手のことよりも自分の都合。自分の感情が全てに優先する。若ければ若いほどそうだろう。そして、その激しさや一途さが魅力になったりもする。 前置きが長くなったかもしれない。中島みゆきの新作アルバム「相聞」は“愛おしさ”に溢れたアルバムだと思った。
 それにしても、である。前作「組曲(Suite)」から二年。42枚目である。ライブアルバムやベストアルバムのような企画ものは含まれないオリジナル作品だけでだ。これだけ長い間コンスタントに新作を出し続けることがどのくらい大変なことか。しかも、同じようなアルバムを作らない。過去を踏襲しない。毎年、その年の在りようが刻み込まれている。彼女が「ひとつのことが終わると、やり足りなかったことや、やり残したこと、やってみたいことが次々と溢れてきて時間がいくらあっても足りない」と、話していたのはもう10年以上前だろうか。
 例えば一昨年の前作「組曲(Suite)」は、NHK連続テレビ小説「マッサン」の主題歌「麦の唄」がヒットした後だったにも関わらず、シングルやセルフカバーなどの既発曲を含まない、どの曲も粒ぞろいのアルバムだった。アルバム一枚が「新曲」で構成されている「組曲(Suite)」は創作に全存在を注ぎ込んできたソングライターの矜持を感じさせた。
 それぞれの曲が一つの大きな流れの中にある。アルバム一枚が複数曲による「組曲」のようになっている、ということでは言えば「相聞」も、そうしたアルバムと言えそうだ。
 ただ、決定的に違うのは、一つの曲が流れの着地になっていることだろう。その曲があってこそ生まれた大きな流れ。
 その曲に導かれるように連なっている心の動き。そして、その曲にたどり着いた時にいくつもの心の襞を超えて生まれてくる「愛おしさ」のカタルシス。
その曲というのは言うまでもなく「慕情」である。倉本聰脚本のテレビドラマ「やすらぎの郷」の主題歌。アルバム「相聞」は、あの曲があってこそ生まれたと言って良いのだと思う。何しろ、中島みゆきが「あなたに尽くしたい」と歌っているのである。そこに至るまでの流れをどう聞かせるか。それがこのアルバムの最大の聴きどころと言って良いのだと思う。
 タイトルの「相聞」というのは、万葉集からきている言葉だそうだ。万葉集の中では「相聞歌」「挽歌」「雑歌」という大きく三つの構成によって作られているという。「挽歌」というのは人がなくなった時に詠まれた歌だ。「雑歌」というのは日常的な日々の出来事を詠ったもので、「相聞歌」というのは「恋歌」の総称だと言う。人を好きになることによって生まれた歌。好きな人に向けて作られた歌。そこまで歌の種類を限定したタイトルは、「恋文」以来ではないだろうか。
 「やすらぎの郷」は、日本のテレビドラマ史上、前例のないものだったと思う。出演者の年齢やドラマの舞台。もはや恋愛の対象外と思われていた大人、というより老人の恋心。美男美女が闊歩していたバブル時代のトレンディードラマではありえないものだろう。「もし死んだ妻に会えるなら、若い頃より老いた妻に会いたい、思い出がいっぱい話せるから」というドラマ中の名セリフこそ「愛しさ」そのものではないだろうか。
 それぞれの曲に「過去・現在・未来」が歌いこまれている。あの時こうしておけばという今だから気づくいじらしいまでの後悔や懺悔。そして、それを超えて今希うこと。「秘密の花園」の“道”が何を指しているのか。“密やかに続く道のその先”は何があるのか。「小春日和」の“冬”が予感させるものは何なのだろう。「マンハッタン ナイト ライン」の“流民”はどんな人を指すのだろう。「人生の素人(しろうと)」の中の“旅立つ日”というのはどんな旅なのだろう。人生に玄人などいない。彼女の歌の登場人物は、誰もが傷つき立ち止まり右往左往しながら年を重ねてゆく。
 男と女の違いを見事に歌って見せた「移動性低気圧」が意外にもフィル・スペクターばりのウオール・オブ・サウンドなのは音楽プロデューサー瀬尾一三ならではだ。「月の夜に」と「ねこちぐら」は、ともに叶わない相手への未練に苦しむ恋心の歌だろう。同質のテーマでありつつこれだけ表現方法が変わるという作家性。月の夜や雨の夜に泣いているのは人間も猫も変わりはないのかもしれない。聞き込めば聞き込むほどに味わいが出るというのはこういうアルバムを言うのだと思う。
 そして、何と言っても後半の3曲がこのアルバムを劇的なものにしている。「アリア -Air-」は、2016年発売の平原綾香のアルバム「LOVE」に提供した曲のセルフカバー。オリジナルを聞いた時、彼女はこれを自分で歌うつもりなのだろうかと思ったキーの高さとシャウトに挑んでいる。これまでの曲の中でこれだけ音域のある曲はあっただろうか。“一人では歌は歌えない”“受け止められて産まれる”という“私とあなた”の歌の極致。時の流れに埋もれない歌を歌い続けてきた彼女の渾身のシャウトは、9曲目の「希(ねが)い」につながってゆく。
 このアルバムがどんなアルバムなのか、これまでにない関心を持っていたのは、一昨年から去年にかけてのツアー「中島みゆきConcert『一会(いちえ)』2015~2016」があったからだ。“今うたいたい歌”とキャッチフレーズもついていたレアトラック満載のツアーで見せたのは、理不尽さに翻弄され希いが叶うことのない名もなき人々の来し方行く末に祈りを捧げるかのような姿だった。それは『一会(いちえ)』だけではないだろう。直近の「夜会」となった「橋の下のアルカディア」を借りれば「棄てられた人たち」へのエール。「希(ねが)い」の中で歌われる“あの人”は“SOSが届かないままになってしまった”全ての人のことでもあるように思う。彼女は、“希いよ届け”“私のすべての希い”“すべての未来と引き替えに”とまで歌っている。これは“自己犠牲”と言ってしまっていいのだろうか。中島みゆきは今、そうした心境に至っているのだろうか。
 こんなに“無私”なアルバムはあっただろうか。こんなに外連味なく高らかに愛を歌ったアルバムがあっただろうか、と思う。“愛してる”ではなく“愛しい”。この歌のために、このアルバムのためにこれまでのキャリアがあったのかもしれない。それを可能にしたのが「慕情」だったのだろう。“生き残る歳月”と“生き残らない歳月”について考えざるをえない年齢だからこその歌。“もいちどはじめから”が平仮名なのは意図的なのだと思う。終わることと始まること。それは彼女がデビュー以来ずっと歌ってきたテーマではないだろうか。
 彼女は82年のアルバム「寒水魚」の中の「傾斜」で“のぼりの傾斜はけわしくなるばかり”と歌った。
 もう彼女の前に“傾斜”はないのだと思う。
あるのは、「秘密の花園」と「やすらぎの歌」へ向かう扉なのかもしれない。

文 田家秀樹

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