SPECIAL INTERVIEW!!! 米良美一

SPECIAL INTERVIEW!!! 米良美一

映画『もののけ姫』主題歌の大ヒットで、当時日本ではまだほとんど知られていなかった“カウンターテナー”という声種を一気にメジャーなものにした米良美一。彼はバロック作品から日本歌曲、歌謡曲にポップスと幅広いジャンルのレパートリーを誇り、多彩な演奏活動を行なってきたが、2014年にくも膜下出血で倒れて緊急入院。生死の境をさまよう危機を迎えたものの、そこから奇跡の復活を遂げ、翌2015年9月にはステージへ復帰した。苦難を乗り越え、CDデビュー20周年という節目を迎えた彼が、復帰後初となる作品『無言歌 ベスト・オブ・米良美一』を発表した。これまでの歩みの集大成ともいえるベスト盤は、幅広いジャンルをカヴァーしていることはもちろん、今ではなかなか聞くことのできない貴重な音源に、新曲「無言歌」も収録。今回はハイレゾ盤もリリースされ、“天上の声”と評される米良の声の魅力を余すことなく捉えることが可能となっている。節目の年を迎えた米良に、声楽家としての歩みと今回の新譜への想いを伺った。

NEW RELEASE

INTERVIEW


  • "松田聖子大好き少年"が"カウンターテナー歌手米良美一"へ


    ――今回のベスト・アルバムは2000年に出された『Bridge』とはまったく違う選曲になりましたね。

    「『Bridge』に入れられなかったけれど大切な音源がたくさんあったので、それをぜひたくさんのかたに聴いていただきたかったんです。とくに90年代にシングルで発売したものは廃盤になっていますし、1999年に出したアルバム『I'll be there』には阿木燿子さんや松本俊明さんといった、いま大活躍されているかたがたの作品が入っていて、とても面白いんですよ」

    ――たしかにお聴きしていて、「こんなにポップス系の曲を歌っていらっしゃるんだ!」と驚きました。

    「もともと日本の名曲やクラシックのレパートリーが中心でしたからね。今回のベスト盤で"こんな米良美一もいるんだ"ということを知っていただけたら嬉しいです」

    ――ただ、米良さんにとってポップスはとても大切なジャンルの音楽なんですよね? 松田聖子さんの曲を裏声で歌っていたというエピソードを読んだのですが。

    「はい。ただもともとアイドル好きであったわけではなく、小さい頃から聴いていたのは民謡や演歌、詩吟でした。身体が弱く入院生活が続いていたとき、ある女性看護士さんが"私の好きな曲なの"と、松田聖子さんの曲を集めた、その看護士さんオリジナルのベスト盤のカセットをくださったのです」

    ――それを聴いてハマってしまったのですね?

    「それまで〈岸壁の母〉とか〈心のこり〉とか聴いていたのに、初恋もあいまって"きゅうん"となってしまって。聖子さんの、ハスキーで甘えた感じの声を目を閉じて聴くと恋のにおいがして、自分の持って生まれた病や現実の辛いことなどのない世界に逃避できたのですよね。四六時中聴くようになりました」

    ――"松田聖子大好き少年"はどんなきっかけで"カウンターテナー歌手米良美一"へと変貌したのでしょうか?

    「これにはいくつかの段階があるんです。まずは私が15歳の頃、聖子さんがご結婚されたんですよね。当時のアイドルは結婚したら引退してしまうような状態でしたから、もう歌ってくれないんだ、と思って。"じゃあ自分がポスト松田聖子になろう!"と思ったのです」

    ――ということは、アイドルになりたかった?

    「そうなんです(笑)。ただ、手足の長さとかいろいろな現実にぶつかってしまって……。でも、どうしても芸術の世界にいきたい、聖子さんみたいに音楽で人に夢を見てもらえるような存在になりたい! と。あと、チヤホヤされたい! なんて気持ちもありました(笑)。そしていろいろ考えて、音楽の"内容"で勝負していけばいい! と思ったのです。だから実力を身につけよう、音楽をちゃんと理解できるようになろうと」

    ――音楽大学を目指すようになったのですね。

    「はい。まず高校の音楽の先生に相談しました。簡単には入れないぞと。やはり楽器は小さい頃からやっている人ばかりで厳しいけど、声楽なら、いつもお前は廊下で民謡を歌っていていい声だし、男だからひっかかるかもよ、って(笑)」

    ――先生も米良さんの才能や声の魅力を感じていらっしゃったんですね。

    「そうみたいです。ただ音楽は、何にもならなかったら食べていけないですから……。先生も慎重になってくださったみたいです。とにかく実力試しをということで、歌を始めて4ヵ月後に"中学校高等学校独唱・独奏コンクール"(宮崎日日新聞主催)を受けたところ、2位をいただけたんです」

    ――いくらずっと歌っていたとはいえ、本格的に始めてたった4ヵ月で2位ですか!?

    「小さい頃からの民謡の積み上げや、"ポスト松田聖子"への熱い想いがあったから、歌うことに対しては度胸があったんですよね。翌年再挑戦したら優勝もできましたし、先生も"いけるかも"と思ってくださったみたいです」

    ――そして東京に行くことにされたんですね。

    「最初は九州の大学にしようかと思い、私立の学校の講習を受けたら、そこの学長先生が"入ったら特待生に"と言ってくださって。それを先生に伝えたら、先生の恩師、岡崎實俊先生をご紹介くださって。岡崎先生は私の声を聴いて、"東京に出てこい"とおっしゃってくださったんです」

    ――もともとはカウンターテナーでなかったんですよね?

    「はい。大学2年生の時、カウンターテナーを知る機会があったんです。オペラなどでのテノールのマッチョな感じはどうしても私には合わなくて……そんな自分のキャラを活かせるのはこれしかない、と」

    ――それからはどんどん声を磨かれ、やがて『もののけ姫』が大ヒットしましたね。

    「ありがたかったですね。ただ、当時は容姿に対するコメントも多く、傷ついたりもして。昔は自分を肯定できなかったし卑屈でした。でも今は、一見マイナスに見えるような容姿も、時期だったり場所が変われば武器になるということに気づいたんですよね。昔はそれに気がつけなくて辛かったですが、今はいい意味で開き直って生きてますから(笑)」

    強いシンパシーを感じた「無言歌」




    ――そうしてカウンターテナーとして幅広く活動されてきた集大成ともいえるのが新曲「無言歌」というわけですね。歌われるきっかけはどのようなものだったのですか?

    「デビューの頃から私のことを支えてくれた、キングレコードのプロデューサーさんの存在が大きいですね。じつは、2005年くらいにアルバム『ノスタルジア~ヨイトマケの唄~』を出した頃からキングさんとは離れていたし、もう二度と仕事もできないと思っていたのですが、2014年に病気で倒れて歌う自信のなくなっていたときに声をかけてくださったんです」

    ――プロデューサーさんがこの曲を米良さんに教えてくださったということですか?

    「離れる前に所属していた"洋楽部"(現在のストラテジック部)で、当時部長を務めていたかたにプロデューサーさんがご相談なさったところ、この歌をすすめてくださったのです。4、5曲候補曲があったのですが、とくに〈無言歌〉には強いシンパシーを感じたのですよね」

    ――許瑛子さんの詩、ジョージア(旧グルジア)の作曲家であるアザラシヴィリさんの作曲ということですね。

    「アザラシヴィリさんのことも、国のこともよくは知らなかったのですが、ジョージアの人たちは確固とした自分たちのポリシーやスピリットをもった民族なんですよね。それに結びついた許さんの詩は、淡々と、粛々としていて、そこにシンパシーを感じたのです。実体験として"死"に直面したからかもしれません」

    ――哀しさと美しさが同居した詩ですよね。

    「長く生きてきた人が自分の人生を振り返ってよかったことや残念だったことをはじめ、功績や、至らなかったこともすべて、自分の目で静観しているなということを感じたんです。病気をした後の自分の心境と寄り添った内容だったんです」

    ――病気をされて、心の中が大きく変わったのですね。

    「昔は、良くも悪くも、のぼせあがったり落ち込んだりする振れ幅の大きさがあったのですが、病気を境にして気持ちが"凪いだ"んです。その状態で自分の人生を振り返ったとき、置かれた状況を見て焦っても、悔やんでも変わらないと気づいて。その状態と歌がリンクしたのです」

    ――実際に歌われていかがでしたか?

    「やっぱり難しいなと。静かな気持ちでいたけど、音楽をすることというのはいろいろなことを同時に考えなくてはなりません。サラッと歌っているように見えても、じつはあらゆることを考えなくてはいけないですから、どうしても気持ちの揺れは生じます。ただ、そういう心も受け入れることができるようになりました」

    (ハイレゾでは)私が意図してやっていること、それを全部キャッチしてくれている




    ――さまざまな経験を経てきた、現在の米良さんだからこそ共感できる内容、そして演奏が詰まっているわけですね。それでは、米良さんの"今"が詰まった最新曲「無言歌」を、今回はハイレゾ音源で聴いていただきたいと思います。ハイレゾの音は生の音に近く、音の粒子が細かくなるため、楽器のそれぞれのニュアンスが明確になるんですよ。声楽にはまさにうってつけだと思います。

    「なんだか裸にされる気分ですね(笑)。粗も目立っちゃうんじゃないかと心配です」

    ――(聴いてみて)いかがですか?

    「最後の声の伸びかたとか、全然違いますね! すごい!」

    ――普通の圧縮音源だとカットされる響きもすべて収録されることで、通常の録音では聞こえなくなる響きもすべて再生されるようになっているんです。

    「すごく伸びやかに聞こえますね。今回けっこう細かくニュアンスに気を配って、いろいろなことをしたんです。中森明菜さんの歌いかたをイメージしてみたり(笑)。それがちゃんと伝わってくる! 本当にすごいなぁ」

    ――ハイレゾで再生されることで、言葉がより"立って"聞こえてきますよね。

    「私が意図してやっていること、それを全部キャッチしてくれていると思います。すごく救われた気持ちです。こういうニュアンス変化ってきちんと伝わらないと、空回りしてしまうのですが、これなら全部伝わると思います」

    米良美一のこれまでとこれからがすべてつまったアルバムである『無言歌』は、ハイレゾ音源で聴くことで、彼の熱い想いやメッセージがよりリアルに感じられるはずだ。




    取材・文/長井進之介 Interview & text by Shinnosuke Nagai
    撮影/吉場正和 Photo by Masakazu Yoshiba

PROFILE

2014 年デビュー20 年を迎えた米良美一は、映画「もののけ姫」の主題歌を歌って一世を風靡し、その類まれな美声と音楽性で欧米でも高く評価されている。また、テレビ・ラジオにも多数出演し、親しみやすい人柄と個性豊かな語り口は、世代を越えて人気を集めている。
1994 年洗足学園音楽大学を首席で卒業。第8 回古楽コンクール最高位(1 位なし2 位)受賞。同年、バッハ・コレギウム・ジャパン定期公演の教会カンタータでデビュー。1995 年第6 回奏楽堂日本歌曲コンクール第3 位入賞。1996 年よりオランダ政府給費留学生としてアムステルダム音楽院に留学。
コンサートでは、国内外のオーケストラとの共演やソロ・リサイタルに加え、ソプラノのエディタ・グルベローヴァやカウンターテナーのヨッヘン・コヴァルスキーなどの世界的名歌手とヨーロッパ各地及び日本でデュオ・コンサートを行い大喝采を浴びた。その後宮本亜門演出「音楽劇・三文オペラ」に演劇初出演を果たしている。映画音楽の主題歌も歌っており、ハリウッド映画「終戦のエンペラー」(日本版の主題歌)や日本映画「マンゴーと赤い車椅子」がある。2011 年10 月より2012 年3 月までロッテ「かりんのど飴」のCMに出演、その他「せんねん灸の奇跡」のCM歌唱にて出演している。
CD録音も多数あり、キングレコードやスウェーデンのBISレーベル、アジアでは韓国のレーベルから多数リリースされており世界各国で発売されている2014 年には宮川彬良氏とのCD「手紙」が発売され多くの聴衆を魅了している。2017 年4 月にはキングレコードよりCDデビュー20 周年を記念したコンピレーションアルバムに新録音の新曲を1 曲収めた2 枚組アルバムがリリースされる予定である。
2007 年大和書房から自叙伝「天使の声~生きながら生まれ変わる」を出版し、これまでの人生から得た経験をもとに、全国各地で講演会も精力的に行っている。
また最近では、全国特別支援学校の子供たちの為に応援ソング"まどをあけて"を作曲した。
2017 年はNHK放送90 年記念大河ファンタジー ドラマ「精霊の守り人」第3シーズン(NHK総合にて11 月25 日放送予定)に出演が決まっている。
第12 回日本ゴールドディスク大賞、第21 回日本アカデミー賞協会特別賞として主題歌賞をそれぞれ受賞。

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