ビルボードライブ・坂本大のエンタメ愛 【Behind the scenes】


東京と大阪で今年10周年を迎えたライブハウス・ビルボードライブを運営するのは、「Billboard」「阪神タイガース」など、阪神グループの抱えるさまざまなコンテンツ事業を手がける“ブランド&メディア創造カンパニー”阪神コンテンツリンクだ。平成元年に、阪神電鉄の子会社として設立され、現在はエンタテインメントとコミュニケ―ションの分野でコンテンツを集約し、発展させる役割を担っている。同社でアーティスト招致を担当するなど、ビルボード事業部の生え抜きとして活躍する坂本大さんに話を伺った。

「音楽キャリアのスタートは、家族連れで賑わうプールのBGMで好きなロックやダブをかけていたこと」

ビルボードライブ・坂本大のエンタメ愛(1)

株式会社阪神コンテンツリンク ビルボード事業部上席部長 坂本大
‘69年生まれ。大阪府出身。大学卒業後、‘93年阪神電気鉄道入社。‘95年阪神エンタテインメントインタナショナルを経て、‘02年より阪神コンテンツリンク所属。4児の父でもある。


—‘93年に入社されたとのことですが、もともと音楽が好きだったのでしょうか? 音楽遍歴やキャリアのスタートを教えてください。

中学生時代から、音楽は好きでしたね。友達の家に遊びに行くと、洋楽好きのお姉さんがいて、ビージーズやEW&Fなんかのレコードを聴かせてもらったり……。自分の世代的にはやっぱりベストヒットUSAやMTVの洋楽ですね。多感な時期に米英のヒット曲をチェックする素地はできていたと思います。ポップスから入って、J・ガイルズ・バンド、ローリング・ストーンズ。スミス、キュアーに到達し、ネオアコ、インディーズに興味が移り、パンクにも食指が動いて。バンドをやってた友達から「ドラム誰もやらへんからお願い」とか言われて(笑)、ヘヴィメタのコピーバンドやったりしていました。高校生時代は商業メタル全盛の時期でしたから。その後、大学を休学してニューヨークに1年いた時には、ヒップホップ、R&Bやクラブミュージックの洗礼を受けました。

当時のニューヨークは、ライムライトやパラディウムがあってクラブカルチャーが華やかでした。仲良くなったハイチやトリニダード出身の連中が、バウンサーだったこともあって、よく入れてもらいました。アジア系は幼く見えるのか、普通に行っても待たされた挙句に入れなかったりも多かったので、得しましたね。当時の空気感を体感できたのは、貴重な経験になりました。
 


就職したあと実家暮らしで、給料のほとんどをCDに費やしてましたけど、それほど知識があるわけでもなく、普通の音楽好きだったと思います。

ただ、その後の音楽キャリアのきっかけは音楽とはまったく関係なかったんです。阪神電鉄に入社して、最初に配属されたのは甲子園にあった「阪神パーク」という遊園地だったので。

—いわゆるあの、遊園地ですか?

そうです。「阪神パーク」は、雄ヒョウと雌ライオンから世界で初めて「レオポン」が誕生した遊園地として関西では結構有名だったんですが、関東の人にはあまり馴染みが無いかもしれませんね。そこで、ヒーローショーや着ぐるみショーといったイベントを担当したり、子供向けのSL列車などアトラクションの操作、スケートリンク教室の受付をしたりと、一番下っ端だったので、他の人の休憩中の交代要員なんかも仕事で、園内のあちこちを走り回っていました。

—社会人としての第一歩は、音楽とまったく関係のない仕事だったと。

一切関係なかったですね(笑)。入社2年目の‘95年1月に阪神大震災が起きたんです。遊園地内が液状化してしまい、しばらく営業ができなくなりました。もっとも早く補修ができて営業を再開できるのが、プールだと。その年の夏には、「甲子園ビーチプール」としてリニューアルオープンさせることになり、自分がそのプールの現場担当になったんです。ですが、プールの監視や水質管理以外にやることと言ったら、アルバイトの面接をするくらいで、正直そんなに仕事があるわけじゃない。うだる暑さの中で、日がな双眼鏡でプールを監視してました(笑)。プール内では有線を流していたんですが、ある日有線じゃなくても場内放送用のカセットデッキで音楽をかけられると気がついて、自分で編集したカセットテープを持って行っては、それをプール場内に流して聴くという趣味全開のBGMを流し始めたんです。

—ぐっと音楽に近づいてきましたね!

実家から甲子園まで通勤する間に、梅田や難波を経由するので、プール帰りほぼ毎日レコード屋に寄って帰っていたんですね。今みたいにYouTubeで曲が簡単に聴けたり、ネットでアーティストの情報を得られるような環境じゃありませんから、限られた予算の中でどのレコードを買うか、真剣に吟味していると時間がかかるんですよね。ハズレのない音源を手に入れるために、バックバンドのメンバーや、プロデューサーが誰なのか、ジャケ写やクレジットをくまなくチェックすることが癖になっていました。今思うと、そのときの知識が今も仕事の役に立っている部分は大きいかもしれません。ただ、そうやってせっかく買って帰っても、翌朝が早いので家で聴く時間がない。だから、寝る前に自動ダビングをセットしておいて、出来上がったカセットを翌日プールに持って行って場内放送で聴く……というのを毎日繰り返していたんです。誰に咎められることもなく、寛大な職場でした。

プールには結構やんちゃそうな人も来ていて、そんな中でドゥルッティ・コラムを流したり、オールドレゲエとか、家族連れがはしゃいでいるプールになかなかにディープなダブがこだまするという……かなりシュールな光景が繰り広げられていましたね(笑)。他にもファンクやソウルバラ-ドだったり、色んな音楽を流していました。BGMなので誰も気にしてないんだろうと思っていたら、ステテコ腹巻きスタイルの浮き輪貸し業者のおじさんに「坂本さん、今日はまた、なんや賑やかな音楽流してまんなぁ」なんて言われたりして(笑)。

プールの営業期間も終わり、欠員中で人を探していると、阪神電鉄の子会社が運営していたブルーノート大阪(現在は閉鎖。‘07年ビルボードライブ大阪としてリニューアルオープン)からの転属命令で、ライブハウスのキャスティングセクションに異動になったんです。11月のことだったと思います。

—ひと夏のテープ編集能力と選曲が認められたというわけですか。

いや、認められたというよりは、「適度に音楽知識があってキャスティングできそう」というのが理由だったようです。確か初出勤の日に、ベーシストの大御所「ラリー・グラハムのライブやってるから、楽屋挨拶行くで」と言われて、スライ・ストーンもプールでかけてましたから、興奮しました。赴任したてでいきなりラリー・グラハムに「ご機嫌いかがでしょうか? 何かあればなんなりとお申し付け下さい」なんて挨拶するわけですから(笑)。翌週はハービー・ハンコックで、当時、楽屋で結構お酒が入った陽気なノリに想像していた大御所の雰囲気と違って、驚いたりもしました。

ビルボードライブ・坂本大のエンタメ愛(2)


—急に世界レベルのアーティストが身近な存在になって、戸惑いはありませんでしたか?

嬉しい気持ちの方が大きかったですね。自分の好きなアーティストを呼べるかもしれない、というのは大きなモチベーションになりましたし。それに、現場での姿勢などを見ていたら、常識人ですごくしっかりしている人が多かったです。プロフェッショナルほどスタッフや、バンドメンバーとのコミュニケーションを大事にするし、やっぱり良いライブをするアーティストはクルーやバンドの仲が良い気がします。あと、どんなにキャリアの差があっても、一緒にステージに上がるからには極めて民主的に接していて、若手も堂々と意見を言っていた。良いライブを生み出すには、こうしたことが重要なんだということを、空気で学んでいきました。

—そういった姿勢で、誰か印象深いアーティストはいますか?

アンリ・サルヴァドールです。それからデイヴィー・ジョーンズ存命の頃のモンキーズ。
ローリン・ヒルはずっとホテルの部屋から出て来なくて……。完璧主義者で、ステージに対するこだわりも強かったので印象深いです。

まぁ、入社当時から見習いでしたから、機材の搬出入、アーティストの送迎の車の運転まで、何でもやっていました。

—キャスティングの仕事は、具体的にどういうことをするのでしょう。英語ができることは重要でしたか?

ニューヨークに住んだ経験があると言っても、僕は特別語学が堪能というわけではなく、読み書きが何となく出来て、ブロークンイングリッシュしか話せないレベルです。それでも、すでに社内に交渉システムが出来上がっていましたから、キャスティング実務に支障はありませんでした。自分の知識はもちろんですが、各アーティストがどういう規模の箱で、どんなツアーをやっているのかを網羅した海外業界誌があって、そういうものも常に参考にしながら、ファンやアーティストの希望でアコースティックで呼ぶのか、エレクトリックの方が良いのか、どんなバンド構成にするのか、彼らのフライトクラスや宿泊費、こういう世代のお客さんが多いだろうから飲食単価をこのくらいに想定できるな……とか収支を計算し、咀嚼して交渉条件に反映させていくんです。当時は英語でタイプライターが打てるスタッフの横について指示をしながら交渉文言を練り、オーバーナイトでエージェントにFAXを送って交渉していました。周りには企画、営業、PRなど、キャスティング周辺の業務に携わるオペレーション部隊が10人くらいいたでしょうか。ほぼ毎日興行で年間かなりの交渉案件をこなしました。電鉄が親会社なので、当時から労務管理はうるさくて。今や、自分が部下に「早く帰りなさい」と言う立場になりましたが、僕らの仕事ってキリがないんですよね。なにかしらやることがあるから、メリハリをつけて切り上げることも大事だと思います。

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—‘95年から12年間大阪のライブレストラン運営に携わり、‘07年にビルボードライブが東京と大阪に同時オープンすることを機に、坂本さんも上京したというわけですね。大阪と東京で何か違いはありましたか?

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ビルボードライブ東京
 

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スティーリー・ダン
 

所属は東京オフィスですが、今も月の半分くらいは大阪と行ったり来たりなんです。家族は大阪で、かれこれ10年以上単身赴任です。東京は、とにかく人が多いですよね。これは、未だに感じます。満を持して東京に進出して、ミッドタウンという新しいスポットから情報を発信すれば、マーケットの規模から考えると楽勝だと思っていました。

こけら落としには、東京の都会のアーバンな雰囲気が、僕の中ではドナルド・フェイゲンの『ナイトフライ』だった……ということから、紆余曲折ありスティーリー・ダンを呼びました。

ビルボードライブ・坂本大のエンタメ愛(7)

ビルボードライブ大阪


でも、東京は大きすぎるんですよね。地方ならある程度決まった範囲がプロモーションターゲットとして狙いをつけられるのですが、東京は落としどころを間違えると、まったく響かない。大阪だとその場でクレームを受けることも、東京ではその場で言われないだけで、その後二度と来店して頂けなかったりすることもあったりと。そういった感覚がなかなか掴めず、軌道に乗ったと思えたのは5年目くらいからです。その都度トライ&エラーの繰り返しでした。その間に今度は東日本大震災もあって、エンタメ業界の自粛ムードはキツかったですね。ただ、その反動なのか翌年ドンと来場者が震災前を上回り、その後はずっと右肩上がりです。お陰さまで昨年度は東京も過去最高来場者数を記録しました。

—音楽業界は時代と共にやや混沌としていますが、エンタメ全体に活気が戻ってきていることは、嬉しいことですね。最後に、坂本さんの仕事におけるモットーや、今後の展望を教えてください。

ライブハウスの経営というのは、良くも悪くも天井が見えているビジネスですが、ビルボードライブに関しては、常にフレッシュで良いライブをお届けできるように、敏感でありたいと思っています。長くやっていると、ある時期は過小に評価されていたアーティストが、時代を経て再びスポットライトが当たるのも、面白いですね。例えば、‘13年にジョルジオ・モロダーの初来日(注:公演として)を実現できたときに、往年のファンと、ダフト・パンクなどで知った若い層が予想以上に駆けつけてくれました。そういった世代を超えた反応のあるライブは、今後も仕掛けていきたいですね。

また、ビルボード事業は、音楽チャート提供や音楽データ解析、クラシック事業も含めコンテンツビジネスも肝で、音楽周辺で多角的に展開できるところが醍醐味だと思っています。好きなことに携わっていることが励みになりますし、これからも熱中できるコンテンツを作り続けていきたいですね。

ビルボードライブ・坂本大のエンタメ愛(8)


■Billboard JAPAN Party
2017年8月19日 16:00~
@SUMMER SONIC TOKYO BEACH STAGE
出演:KEHLANI / HONNE / Tuxedo
http://www.billboard-japan.com/special/detail/1954

■Billboard JAPAN Party × SUMMER SONIC Extra
Tuxedo
ビルボードライブ東京:2017年8月16日(水)~8月17日(木)
ビルボードライブ大阪:2017年8月22日(火)
http://mysound.jp/art/125430/

■José James
ビルボードライブ大阪:2017月8月17日(木)
ビルボードライブ東京:2017年8月21日(月)
http://mysound.jp/art/73688/

billboard LIVE
http://www.billboard-live.com/


Text:仲田舞衣
Photo:Great The Kabukicho

 

音楽業界の裏方の仕事ぶりに迫る連載企画。
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