Behind the scenes 〜チッタワークス・松井昭憲の現場力〜


B’z、Mr.Children、矢沢永吉、稲川淳二、忌野清志郎、井上陽水、OASIS、Red Hot Chili Peppers、NIRVANA、RUN DMC……ポップスからロック、パンク、メタル、ヒップホップ、レゲエとジャンルレスに、また国内外問わず多くのアーティストに支持される『クラブチッタ』。‘88年に大型ライブホールの先駆けとして川崎にオープンし、ときに“聖地”としても語られる歴史ある場所だ。そこでの経験を活かし、ライブ制作会社『チッタワークス』を立ち上げた松井昭憲さん。ユースミュージックの裏方としてキャリアを積み上げ、今や日本の音楽シーンにおいてかけがえのないスペシャリストとして知られる松井氏の現場力とは。長年ライブの現場を支え続けて来た氏の美学を大いに語ってもらった。

「現場の全部をやれるっていうのが、面白くて仕方がなかった」

チッタワークス 取締役プロデューサー 松井昭憲
‘73年生まれ。千葉県出身。制作会社、クラブチッタを経て現職

―松井さんが今の仕事に携わるようになったきっかけを教えてください。

自分は千葉の浦安出身なんですけど、元々バンドを組んでいて、ギターを弾いていました。プロになろうとは思っていなかったのですが、ライブの後に楽屋を掃除したりするのは好きだったので、“俺、裏方向いてるな”と思うようになって。当時の求人情報誌に、数ページだけマスコミ欄があったので、なんでも良いから雇ってくれって片っ端から電話して一つだけ引っかかったのが、アマチュアバンドを集めてイベントをやっているような制作会社でした。

‘11年6月には、ライムスター全国ツアー「KING OF STAGE Vol.9〜POP LIFE Realease Tour2011〜」の追加公演がクラブチッタで行われた。

―そこからチッタワークスの前身とも言える川崎のライブホール、クラブチッタに転職されたのですか?

いえ、そこの会社がクラブチッタ(当時は川崎クラブチッタ)を会場としてよく使っていて、今も一緒に働いている先輩に「うちに来ないか」と誘ってもらったんです。最初は出向としてクラブチッタに関わり始めて、96年、23歳の頃には社員になっていました。その頃は、バンドも辞めていて六本木のクラブでよく遊んだりと、ヒップホップに興味を持ち出していたんですよね。当時からクラブチッタはオールナイトのイベントを精力的にやっていたので、オールナイトを担当することになり、ダンスイベントを始めたんです。街中でダンサーっぽい格好してるヤツに片っ端から声をかけて出演者を集めたりして。並行して、パンクやレゲエのイベントをやったり、スカやギターロックのイベントを自分で企画してみたりとか、いろんなことをやっていました。

当時は今ほど身分証のチェックも厳しくなかったので、今だから言えるのですが10代でも夜の現場に来てる子は多かったですね。そういう奴らが良いアーティストになっていくことが多かったので、やはり思春期に現場の空気を体感するのは重要で、今みたいに未成年が現場に来られないってのは勿体無いですよね。今の子はスキルはあるんだけど、結局現場を盛り上げるのが下手だったりするし。

―音楽的にも様々なジャンルに興味を持たれていたんですね。

そうですね。どっちかというとレゲエとかヒップホップ寄りだったんですけど、クラブチッタのオールナイトを盛り上げたいと思っていたので、青山のハウスの小箱に行って、「イベントやりませんか!?」って売り込みにいったりもしていました。取り敢えず飛び込みで(笑)。当時のクラブチッタって、アーティストにとっても大きなステップの場だったんですよ。一番大きなクラブだったし。ヒップホップのイベントをやるクラブで、しっかりしたサウンドチェックの手順を踏むのがうちくらいだったから、「サウンドチェックってこうやってやるんだ」ってことを経験してもらって。そこでライムスターとか、いろんなアーティストと仲良くなっていきました。仕事としての現場だけじゃなく、クラブにも遊びに行ってたから可愛がってもらえて。

  • ―公私ともに。

    プライベートって言っても、夜のクラブで飲んだくれて馬鹿話をしていただけなんだけど、やっぱり現場にいる人のことはアーティストがすごく信用してくれました。その流れで、‘99年に行われた『B-BOY PARK』に関わることになって、それが僕にとって大きなターニングポイントでした。仲が良いレーベルの人から、『B-BOY PARK』の会議があるからって突然呼ばれたんですよ。行ってみたらヒップホップ業界の錚々たるメンバーがいて、なにかと思ったら、「椅子を600脚貸してくれ」って言われて。僕からしたら、勿論良いですよって感じなんですけど、詳しく話を聞いてみたら、やっぱりイベントの裏方みたいな人は誰もいなくて。


    ―イベントとして形にするところを松井さんが担われたんですね。

    担うという意識は無かったですが、やってみますってことで。面白かったし、自分がそこにいられることが嬉しかったので、頑張りましたよ。それで、『B-BOY PARK』の二回目あたり、‘00年からの2年間がちょうどクラブチッタの改装時期で。必然的に外の仕事をやるようになり、ライブハウスの人から制作マンとしても仕事をする様になりました。

    ―改装期間中の仕事内容が、今の松井さんのお仕事の基になっているのでしょうか? あるクラブに常駐するのではなく、案件ごとに制作の仕事を請け負うという。

    その通りです。でも、自分でリスクを背負ってイベントを一からやる、モギリもやるし、バーカウンターにも入る、照明の手伝いもするし。そうやって全部をやれるってのが、面白くて仕方なくて。その頃、“制作”って言葉は知っていたけど、具体的に何やる人なのかは知らなかったくらいですから。ちなみに、般若のライブDVDのブックレットに、彼が客席に降りたことでお客さんが殺到して盛り上がりすぎているのを制止しているが写っているのですが、現場でおきたことに対して自分の判断でとっさに動く事は過去の色々な経験が役に立っています。この写真はセキュリティーに指示出す暇もなかったので自分で行くしかなかっただけですけどね(笑)。


  • ―誰かモデルになるような人もいなかったということですよね?

    いなかったというよりですね、何故僕がブラックミュージックシーンの方に進んだかというと、ロック業界には師匠な先輩たちだらけでしたし、もうシーン自体が固まっていて、今から入ってもテッペン取れないんじゃないかと思ったからなんです。その頃ちょうど出会ったヒップホップは、渋谷のタワーレコードでもワールドミュージック欄に置かれていたような頃で、シーン的にまだまだ広がっていなかった。それも含めて、面白いと思いましたね。

    当時は『ロンドンナイト』や『ロカビリーナイト』が全盛期だったんですよ。ツバキハウスから流れてきたお客さんも多かったし、アンダーグラウンドなイベントのメッカという自負はありましたね。その後、ハイスタンダードの『AIR JAM』とかがどーんとブレイクして行くじゃないですか。うわーすげーな、ヒップホップでもこういうこと出来ないのかなって思いましたね。

現場を安心させられる人間力と柔軟なアイデア


―当時からツアー制作業務も手がけていたのですか?

そうですね。僕が一番最初にツアー制作を担当したのは、スキャフルキングでした。チッタはホールでもありますが、基本的な姿勢はライブハウスだから、全国のライブハウスにネットワークがあり、ブッキング担当ともコミュニケーションが取り易い部分は大きいんですよね。先輩たちがそういう土台を作ってくれていて。僕は最初は何もわからないで現場に行くだけだったのですが、現場だったらどんな状況でもこなせるという自信はありました。
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  • 実は、一度クラブチッタの仕事に飽きてしまい辞めようと思ったことがあるんです。どんな仕事でも、30歳前後で「自分はここにいて良いのか?」って考える時期が来ると思うのですが、それが自分にも来まして。上司に「辞めて、フリーで制作の仕事をやっていこうと思うんです」と告げたら、「制作会社を社内で作らないか?」と、チッタグループの大社長が引き止めてくれたんです。そんなこと考えたこともなかったので、嬉しかったですね。それでチッタワークスを始めることになりました。‘05年の話です。



    ―夢のある話ですね。チッタワークスはいわゆる社内ベンチャーのようにして始まったと。

    そうですね。子会社とはいえ、自分の裁量でなんでも進められるベンチャー的な自由度がありました。ちょうど同じ頃に、ライムスターはもちろん、多くのラッパーがワンマンライブをやるようになって来て、その辺りの制作を一通り担当させてもらえたり、タイミングも良かったんですよね。同時期に『横浜レゲエ祭』が初めて野外でやるっていう時にも舞台監督で誘って頂けて。当時は毎週末レゲエのフェスが開催されていたので、大忙しでしたね。今ツアー制作は主にライムスターとかラッパーが中心で、他は舞台監督として携わることが多くなっています。演出のアイデアを出したり、ステージのイメージを作ったり、スタッフィングしたり……。近々だと、都議選への出馬で話題のleccaや鬼束ちひろのツアーが始まります。

    ―非常に幅広いフィールドで活躍されてきたんですね。今の音楽業界で主流となっている大型フェスなどはいかがですか?

    『SUMMER SONIC』は初期の頃、邦楽部門の制作のまとめのお手伝いをしたりと、結構関わっていました。ただ『FUJI ROCK FESTIVAL』は始まった頃からいつも日程的に別の仕事をしている時期なので、仕事としてもお客としても行けたことがないんですよね。自分の現場以外にも行ってみたいけれど、物理的に不可能……ってことは結構多いです。

    ―まさに松井さんが手探りで見つけ出してきた現場力、ノウハウが今のライブシーンの至るところに活かされていると言っても過言ではなさそうですね。仕事をする上で、最も大切だと思うことはなんでしょう?

    僕らの仕事の一番の肝って、他人を安心させられるかどうかだと思います。お客様はもちろん、アーティストや現場スタッフのことも安心させられる人間力を持ってないとダメだと思いますね。もちろん、ただ現場にいれば良いんじゃなくて、アイデアを出せなきゃダメだし。透明なものに色をつけるってのは、絶対にアイデアだから。


    ―なるほど。アイディア力が、松井さんが20年以上も一線で仕事を続けることが出来ている理由なのですね。

    飲みの席とかで、「宝くじ当たったらどうする?」みたいなもしも話ってよくするじゃないですか。自分は「宝くじ当たったらやりたい仕事しかやらないな」って思ったんですよ。でも、よく考えたら、宝くじは当たってないけど俺はやりたい仕事しかやってないやって気付いて(笑)。もちろん、トラブルは多い仕事だし「チケット売れねーなー」みたいな、胃の痛くなることも多々ありますよ。でも、本当に自分はやりたいことを仕事としてやれているので、ありがたいです。他人を楽しませる仕事だし、やる側が楽しんで無かったら何にもならないなって。それだけですよね。

    CITTA’WORKS
    http://www.cittaworks.com/


    Text:Maruro Yamashita
    Photo:mysound編集部(松井氏)/松井氏提供(ライブ他)
    Edit:仲田 舞衣
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