ヤン富田が探求する「音楽による意識の拡大」

絶大なるフリークスを国内外に有するヤンさんに、お話を聞きました。春風



3月24日、ヤン富田のライブがブルーノート東京で開催された。1stステージと2ndステージでそれぞれ約70分のライブだったが、そこには、電子音楽があり、ヒップホップがあり、スティールパンのソロ演奏があり、ポップ・ミュージックがあり、つまりはヤン富田の多岐にわたる音楽性を一望できるような体験があった。





「ヤンさんの魅力がコンパクトに凝縮されていて、素晴らしかったです! 1曲目のヤンさんのギターのチューニングがとても知りたいです」

当日、会場に来ていた小山田圭吾は、ライブの感想をそう語り、Little tempo、KIRINJIらで活躍する田村玄一は、40年来の親交を踏まえ、こう呟いた。



ヤン富田は、1989年にオーディオ・サイエンス・ラボラトリー(A.S.L.)を開設し、現在に至るまで日々「音楽による意識の拡大」をテーマに研究を続けている。

「名刺代わりの公演のつもりでやりました。電子音楽もやって、ギターもやって、パンもやって。ギターはカントリーブルースが好きで、ずっとアコースティックのレゾネーター・ギターを弾いてました。でも、今回のセットなら場所柄エレキのジャズギターが合うかなと思って。チューニングは、私だけのチューニング・スタイル。あのチューニングで35年やっています。ハワイのスラック・キー・ギターと、カントリーブルースが出会って化学反応が起きてメローなトーンが生まれたというような感じです、アハハ。 ポジションとかも自分で決めているから、傍からはわからないと思いますけど。今回のライブでも、小山田(圭吾)くんが最後まで残っていてくれて、“あのチューニングはなんですか?”って聞いてきたけど(笑)。でも、小山田君は気がついたけど、聴いている人たちにとっては、あのギターのチューニングがどうとかを知らなくたって、奏でられている音楽自体が良ければなんの問題もないんです。だって、どんな音楽でもエンタテインメントだと思っていますから。音を奏でてお金をいただく限り、聴いてもらう方に喜んでいただかないと。だって、音楽って人が生きていく順番でいけば、ずっと後ろのほうにあるものでしょ。音楽が機能するのは、まず家賃を払って、ご飯も食べれて、それでまあ、何だな~、音楽でも聴くかってなるわけで。昔は選択肢が少なかったから音楽鑑賞は娯楽の王道だったけど、今では選択肢が広がってすっかり隅に追いやられてしまった感はありますけど。それでまあ音楽なんてなくたって、人は生きていけるわけで。“音楽がなきゃ生きていけない”なんて、そんなことは全くなくて。だから、音楽のジャンルに高尚も低俗もない。だったら来てくれた人が喜んで、楽しんで、“あ、いい音楽を聴いたな”って帰ってほしい」

そんなヤン富田の決定的ともいえる音楽的原体験は、8歳のころまで遡る。衝撃を受けた場所は、銀座日比谷にあった映画館。1960年に公開されたディズニー映画「眠れる森の美女」を、叔父に連れられて観に行ったときのことだ。劇中で流れる、チャイコフスキーのバレエ音楽をもとに編曲されたワルツ「いつか夢で」を耳にしたとき、ヤン少年は音楽の虜になった。

「初めてだったの、音楽が強烈に琴線に触れたっていう体験が。言いようもなく切なくなっちゃった。この感覚はなんなの?って。それまでにも音楽に触れてはいたけれど、そんなこと初めてで、その衝撃がすごくてもう一回聴きたい、また聴きたいなって思ったら、叔父さんの家にそのレコードがあった。それでまた聴いたら、やっぱりキューンってきたんだよね。その原体験が忘れられなくて、この感覚を他の曲でも味わいたいなと思って音楽を始めて、今も追い求めているんです。その後、ドビュッシーやビートルズにも出会って、ビートルズの中にもそういう曲がたくさんあった。本当に鳥肌がたって、この鳥肌が立つ感じってなんだろうって。それで、友だちの家に遊びに行くと、その友だちのお姉ちゃんがビートルズのレコードをかけていた。“ラジオのこの番組を聴けば、ビートルズが流れるわよ”って教えてもらったりもして。それからはもう、毎日ラジオを聴いて、メモして、お小遣いを貯めて、レコードを買って。音楽との出会い方は変わりましたけど、その時の気持ちは今でも変わらない」

ヤン富田が幼少時に体験した“琴線に触れる感覚”は、特に今回のライブでも披露されたスティールパンのソロ演奏や、DOOPEESの楽曲でも味わうことができる。まるで儚い夢を見ているような、心地良くも感傷的になる、あの感覚。その感覚の現出に大きな役割を果たしたDOOPEESの二人は、今回のライブを振り返って、こんなふうに語る。



スージー・キム「1stステージと2ndステージの落差が良かったよね」

大野由美子「1stはスリルがあって、2ndはテンポ感が良かったと思う。両方とも楽しかったな。ヤンさんは、一個の音を出しただけでその人となりが全部わかるってよく言うけど、それは本当にそう思う」

スージー・キム「人間を磨け、ってね。それは、ヤンさんが常々言っている“必然性のある偶然”と同じことだよね。その場に今の自分がいるってことだから」

ヤン富田はその後、先進性を発揮した音楽制作をしていくことになるが、ヒップホップの登場に関してはどう考えていたのだろうか。

「ヒップホップの私の位置づけは、クール・ハークが元祖ヒップホップで…と云われるストーリーとは違うものです。
 
手法でみれば、DJ のブレーク・ビーツはそんなに目新しいものではなくて、1948年にフランス国営放送局のピエール・シェフェールが数台のターンテーブルを使って変拍子の楽曲を創ったりと実験をしています。それはミュージック・コンクレート (具体音楽) と呼ばれる音楽の確立となりますが、それはその後より大きなくくりとして電子音楽に集約されていきます。電子音楽というのは、電気を使って新たな音楽表現を創造する姿勢をもった音楽のことで、単に電気を使った音楽は正確には電気音楽といいます。電子音楽はエレクトロニック・ミュージックで電気音楽はエレクトリック・ミュージックです。私はそうゆうふうに位置づけてきました。ここで間違えてはいけないのは、最初に言ったように音楽のジャンルに高尚も低俗もありませんから、どちらが偉いということではありません。ただ作家の姿勢に違いがあるということです。
 
ヒップホップも電子音楽総体の中に位置づけてみると、サウスブロンクスから派生した響きとはまた違った響きが聴き取れて、私にはとても魅力のあるものに聴こえてきました。そうした思考は、いとうせいこうさんのアルバム『MESS/AGE』の制作に繋がりました。ちなみに電子音楽には、ライブ・エレクトロニック・ミュージックという電子音楽の生演奏というものがあるのですが、これはジャマイカのDUBのルーツにあたるものといえます。DUB を電子音楽の地平にとらえて聴くと聴こえ方がまた違って聴こえてきます。こうした捉え方をしていた人は、私がたまたま出会わなかっただけかも知れませんが、1980年代前半には皆無だったかと思います。その後、ヒップホップが一過性の流行ものではなくて新たな音楽として無視出来なくなって来ると、90年代中期位から、そうした捉え方をする人もドイツ、英国、米国でちらほらでてきました。
 
いとうせいこう『MESS/AGE』の制作(1988)では、最初に、いとうくんと、宮ちゃん(DUB MASTER X) にA.S.L. の音楽室に来てもらって、創作しておいた楽曲で『MESS/AGE』に収録した「THEME OF ASTRO NATION」と「DADA MUFFIN」を聴いてもらって、こうゆう方向で制作するからとプロデューサーとして説明しました。20世紀初頭のイタリア未来派のダダイストによるマニュフェスト宣言の演説とピアノ演奏から構成した「DADA MUFFIN」、それは、それを20世紀音楽のスタートとして位置づけ、その後の電子音楽へと繋がる流れを意識した私の現代音楽へのアプローチでもありました。「THEME OF ASTRO NATION」では、サン・ラーやスパイク・ジョーンズのネタを使ってますが、当時は不思議な事にサン・ラーでさえ誰もネタに使っていませんでした。でもよくよく考えると、ヒップホップのオリジネーターとしてリスペクトされる、クール・ハークや、アフリカ・バンバータ、グランドマスター・フラッシュにしても、ハークは私より3歳年下だし、バンバータもフラッシュも6歳年下の後輩で、音楽家としてのキャリアも私の方が長いから後輩にあたるわけで、だからさらにその下の世代になってきたりすると…彼らよりネタを知ってるのは当たり前なんだと思いました、アハハ。

勉強でもスポーツでもなんでもそうですけど、最初はなんにもわからないでしょ。音楽も実はそうなんですよ。毎日、シャワーを浴びるように音楽を聴いていって、ある一定量を過ぎた辺りで少しずつわかってくるんです。それをどんどんと続けて行くと、運がよければ本質に出会うことになります。途中で止めちゃったり、半端な感じで物事に接すると、なんでもそうですがそれなりの結果となります。それは物事の真理でもあると思います。私が、スティール・パンを始めたのは、バン・ダイク・パークスの『ディスカバー・アメリカ』というアルバムを1971年に聴いたのがきっかけで、そこからパンの研究を始めて、1988年のバン・ダイクの初来日公演では、ディスカバー・アメリカ・オーケストラの一員として共演したり、マーティン・デニーのエキゾティック・サウンズを1970年代に随分と研究した時期があって、後年デニーさんの復帰作『エキゾティカ90』(1989)を制作することになったりで、他にもそうしたことが幾つも自分に起こりました、だから毎日こつこつと積み重ねて行く事の努力は信じて良いと思います。それはよくもわるくも必ず結果がでることで、だから次に行けることにもなるんですね。

ヒップホップが良いなと思ったのは、それまでのどんなにアンダーグラウンドで過激な思考を持ったパンクな音楽でも、演る前にはお互いに楽器のチューニングをしたけど、ヒップホップはチューニングをしなかった。違うキーの楽曲をDJ はカットアップしてぶつけてくるのだけど、ラッパーはそんなことおかまい無しに高揚しラップし、アウトオブキーで歌も口ずさんだ。このでたらめな感じがでたらめで終わる事がないある種の創造性をそこに感じ取ってその魅力にはまりました。窮屈だったそれまでの音楽に対して、破壊的な解放感がありそれはそれはカッコ良かった。ただ余計なことを言うと、そうした革命的な解放感も、ヒップホップが商売になればなる程、自分たちでルールをひいてお行儀よくなっちゃいました、アハハ。そうやってそぎ落としていった部分に本質があったりするのにね」


今回のライブには、いとうせいこうも出演した。ステージ上ではヤン富田のバイオフィードバック・システムに拠って、いとうの血流と心拍をビートとメロディに変換し、それに合わせて『建設的』に収録された「だいじょーぶ」(ヤン富田:作曲)を、いとうとDOOPEESの歌、それに合わせるヤン富田のギターによる電子音楽が演奏された。
 
いとうは、こんなふうに語る。
「俺はヒップホップをやり始めたときから、ヤンさんがトラックを作って、俺が日本語でラップをどうするかっていうことをやってきたから、ヤンさんのほうがずっと年上ではあるけど、戦友的なところはありますよね。先輩に対して口幅ったいけど、ヤンさんは同志だと思っています」



「脳波を音楽信号に変換したり、心拍でメロディーを創ったりすることを始めたのは1994年からで、それまでの準備期間を含めるとさらに数年さかのぼります。当時オーダーメードのみで再生産を始めた、サージ・モジュラー・ミュージック・システム (モジュラー・シンセの一種) は手元に届くのに一年以上かかりました。電気の電圧変化で発する音は、オーディオ的なハイファイ・サウンドということではなくて、機材のシステムによる出音の違いが凄く出ます。だからその違いが判ってくるにしたがい、この機材でなくてはダメだということになります。端から見れば、ブザーにしか聴こえないような音なんですけどね、アハハ。でも音というのはとてもデリケートで、そうゆう少しの違いを積み重ねていくことによって本当に納得できる音に出会えるんです。それは私が音楽に目覚めた琴線に触れる旋律と同様の音の響きでもあるんです。



1996年には、その脳波のシステムを持って、レコーディングのため渡米しました。当初は、ジョン・ケージの「4分33秒」の初演 (1952) のピアニスト、デビッド・チュードアにオファーしました。チュードア氏に「4分33秒」ピアノの前に座ってもらい、その時の脳波、心拍のデータを記録するという「4分33秒」のバイオフィードバック・バージョンです。これはチュードア氏の健康状態から叶いませんでした。他のプランは、ニューヨークでグランドマスター・フラッシュ、ホノルルでエキゾティック・サウンドのマーティン・デニー・グループのパーカッション奏者兼バード・コールやジャングル・エコーのオリジネーター、オーギー・コロン、アーサー・ライマン・グループのドラマー、ハロルド・チャン等のバイオフィードバック・セッションです。マンハッタンのど真ん中にあるユニークサウンド・スタジオで行われたレコーディングでは、開始30分前には小脇にジェミナイのミキサーとビートボックスを抱えて一人でフラッシュは笑みを浮かべてやってきました。それを見て、このセッションは上手くいくと思いました。レコーディング・スタジオでの音楽家のマナーは大方万国共通なので、一流になれば成る程きちんとします。フラッシュもそうゆうことが判っているお人でした。大物ぶって人を待たせるとか、配下の若い者をぞろぞろ引き連れてくるとか、そうゆうことがなく、脳波のセッションは上手くいきました。ただ、前もって渡しておいたレコード・ネタのつなぎの部分を指定した箇所とは違うパートを覚えてしまい、“あ、そこじゃないよ。ここだよ”って言ったら、“えぇー! 練習してきたのに!”って泣きそうになってました、アハハ」

フラッシュとの脳波のセッションには、まだまだ面白いエピソードがある。

「実はもう一曲録ったんです。これは未発表なのですが、レコード・ネタをフラッシュのおまかせにした10分前後の脳波のセッションです。フラッシュは私のことを、どこかのラボの現代音楽の作家かと思っていた節があったので、フラッシュが用意したオールドスクールのネタをブレイクつなぎで始めると、そのネタをかたっぱしから言い当てたんです。これはこれだって。そしたら、フラッシュの態度がバって変わって。“お前、なんでそんなこと知ってるんだ!”って(笑)。でもそこで、単なるエクスペリメンタルのレコーディングじゃないものをフラッシュは感じ取ったと思います。私のフラッシュに対するリスペクトも感じてくれたかと思います。セッションが終わると、フラッシュはレコードをもらっていいかと訊いてきました。私が用意したセッションで使用したレコードです。『MESS/AGE』のインスト盤とDJ教則ビデオ用に作った私のブレーク・ビーツ集です。お互いのレコードにサインし合ってセッションは和気あいあいとした感じで終了しました。帰り際、小脇にミキサーと小物一式、ふところには取っ払いのギャラ (ミュージシャンは取っ払いが一番嬉しい!) で満面の笑みを浮かべて、“お前たち、この後はどうするんだ?”って言うから。“オレたちは、この後にハワイでも同じようなセッションがあるんだ”って答えたら、満面の笑みで“お前たち、狂ってるな!”って言って(笑)。その後、エレベーターが閉まるまで、ずっと手を振ってくれました、アハハ。今日のお話はこんなところかな」

このようなグランドマスター・フラッシュとのセッションによって生まれたのが、1998年に発表されたヤン富田のアルバム『Music For Living Sound』に収録されている楽曲「VINYL BEAT OF TWO TURNTABLES WITH CYBERNETICS AND BIO-FEEDBACK」だ。同曲は、ヤン富田が制作したブレーク・ビーツのレコードを主体にフラッシュがターンテーブル2台でプレイをし、そのときの脳波や心拍から発せられる電気信号を音楽信号に変換し、さらにはヤン富田自身の心臓からの信号も音楽信号に変換するという、大いなる実験が行われている。





3月24日のライブでは、1stステージと2ndステージともに、スティールパンのソロ演奏が最後に披露された。その美しい音色の先には、どんな音楽が広がっているのだろうか。





A.S.L.リポート:オーディオ・サイエンス・ラボラトリーについて
http://asl-report.blogspot.jp/2016/11/asl_16.html
BLUE NOTE TOKYO
http://www.bluenote.co.jp/jp/artists/yann-tomita/

Text:大久保 和則
Photo:Great The Kabukicho
Edit:仲田 舞衣

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