【スージー鈴木の球岩石】Vol.16:1984年の藤井寺球場と大江千里「十人十色」


スージー鈴木が野球旅を綴る連載「球岩石」(たまがんせき)。第16回はかつて大阪の「河内」エリアにそびえ立っていた、今はなき近鉄バファローズの本拠地・藤井寺球場を取り上げます。そしてこの藤井寺という街からニューヨークへと揃って旅立った、才能あふれる二人の青年のその後をたどっていきます。

 
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1989年日本シリーズ第二戦(藤井寺球場)、吉井理人が締めくくり近鉄連勝。

 

藤井寺球場と吉井理人とスージー鈴木

 

藤井寺球場――大阪の藤井寺(ふじいでら)市にあった、今はなき近鉄バファローズの本拠地球場。

藤井寺市は、私の生まれた東大阪市と同様「河内」(かわち)といわれるエリアにあります。ある程度の年齢以上なら憶えている方も多いでしょう、ミス花子「河内のオッサンの唄」(1976年)に歌われた、あの「えげつない」イメージの河内です。

小学生時代は親戚のおじさんに連れられて、近鉄八尾駅からバスで向かいました。70年代後半、近鉄投手陣の二枚看板、鈴木啓示と神部年男のサインボールを買ってもらったことも憶えています。

この球場の記憶は、いつもデーゲームでした。なぜか。

球場としての強烈な特徴だったのは、なんとナイター設備がなかったこと。当時、近隣住民から「ナイター公害反対」として工事差し止めの訴訟を起こされたのです。

しかし、1984年になってようやっとナイター設備が整いました。この年に新人だったのが、和歌山県立箕島高等学校からドラフト2位で入ってきた吉井理人少年。

実は、さる1月29日の夜、私は、現・千葉ロッテマリーンズの吉井理人監督(以降、敬称略で)とお会いしたのです。

キャンプイン直前にもかかわらず、私がレギュラー出演しているラジオ番組・BAYFM『9の音粋』のゲストに来ていただいたのでした。ありがたいことに番組のリスナーとのこと。

昭和の感覚では、プロ野球に行くような人は、子どもの頃から野球漬けというイメージがありますが、しかし吉井理人には「ロック少年」時代があったらしいのです。今ならともかく、当時としてはかなり珍しいことでしょう。

番組内でのトークによれば、中学時代、YMOに目覚めて「丸坊主テクノカット」にしていたとか、高3の夏に甲子園に出たのち、その秋には文化祭に出てビートルズを演奏したとか。

そして、番組の最後には、吉井理人本人がギターで、ビートルズ「ブラックバード」を爪弾いたのでした。上手かった――。

素晴らしいことだと思います。そして、子どもの頃から野球漬け、音楽をちっとも聴いていなかったような「野球バカ」には、これからの時代のチームマネジメントなんてできないような気がします。

先に述べたように、吉井理人は84年に近鉄に入団。番組内での発言――「音楽の話が合う人は近鉄にはいませんでした」。

そりゃそうでしょう。近鉄といえば、パンチパーマとセカンドバッグと酒の似合う豪傑集団のイメージでした。まして、荒い気風で知られる大阪河内のど真ん中の藤井寺球場が本拠地。ビートルズだ、ロックンロールだ、というより演歌だったのでは?

入団すぐの選手寮の自室で、ウォークマンか何かでひとり寂しく、ビートルズを聴く吉井青年を想像すると妙におかしいのですが。

実は、前回取り上げた1988年の川崎球場、いわゆる「10.19」にも、吉井理人は絡んでいます。というか、そうとう重要なピースとして。

近鉄が優勝を懸けたダブルヘッダー、第1試合の土壇場で登板するも……。

――迎えた九回裏。吉井はいつも通り、いいボールを際どいコースに投げていた。しかし、微妙なコースをことごとくボールと判定され、この回の先頭打者に四球を与えてしまう。内角の際どいコースを4つ目の「ボール」と判定された瞬間に吉井は激高、「ストライクじゃないか!」とマウンドを下りて球審に食ってかかろうとした。(日刊ゲンダイ/2022年4月20日)


いきり立っている吉井理人を見て、首脳陣は阿波野秀幸への投手交代を決断するのですが、つまり吉井青年は、元々そうだったのか、近鉄の血、ひいては河内の血が濃くなったのか、かなり血気盛んな青年になっていたのでした。

 

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1974年、住民の反対によってナイターの鉄塔が出来た時点で工事がストップ。

 

『ミュージックトマトJAPAN』で出会った大江千里

 

さて、その1984年。高3の私が秋を迎えています。もう部活も卒業しているので、夕方には大阪市内の高校から東大阪市の自宅に直帰。しかし、帰宅しても受験勉強になかなかエンジンがかからない。

そこで、10月からUHFの神戸サンテレビでネットされ始めたテレビ神奈川『ミュージックトマトJAPAN』を見るのです。ある日、大江千里という若者の「十人十色」という曲のプロモーションビデオ(PV)を観ました。私が彼と出会った瞬間。

「可愛い!!」

PVの中の大江千里が異常に可愛かった。いかにも東京のお坊ちゃんだろうと思っていたら、クラスの同級生がこう言った――「あいつ、藤井寺の出身やで」。

音楽に詳しい同級生はファッションにも詳しい。「大江千里ってアイビーかいな?」「いや、あれはプレッピーやな」。プレッピー……私は知らなかったのですが。

それでもさすが藤井寺出身、血気盛んな時代もあったよう。大江千里を見出したのは、EPICソニーの名プロデューサー・小坂洋二。拙著『EPICソニーとその時代』用の対談で小坂氏はこう語っていました。
 

――「大阪の御堂会館という場所でコンテストがあり、そこに名の知れた芸能審査員がいて、参加アーティストに質問するんですけど、千里君はいろんな質問を一切無視して答えませんでした」


藤井寺の若者は一筋縄ではいかない。

かくして1984年、吉井理人がまだくすぶっていた藤井寺から(この年登板無し)、大江千里が先に全国区に飛び出しました。

 

藤井寺からニューヨークへと向かう吉井理人と大江千里

 

さて、ここで吉井理人と大江千里の共通点=「藤井寺ニューヨーカー」。彼ら二人とも藤井寺からニューヨークへ向かうのです。

まず吉井理人は、1995年にヤクルトスワローズに移籍。野村監督の下、2度のリーグ優勝・日本一を経験して、先に人気音楽家となっていた大江千里を追うように全国区になります。

そして今度は、元近鉄の同僚だった野茂英雄を追うように1998年、メジャーリーグ、ニューヨーク・メッツの選手に。

ちなみに当時のメッツの本拠地は「シェイ・スタジアム」。ビートルズのコンサート開催地「シェ・スタジアム」(当時、こう呼ばれた)として名高い球場だったというのも、吉井理人とビートルズの一種の縁でしょう。

約10年後の2007年、今度は大江千里がニューヨークを目指します。目的は、ジャズを学ぶため。47歳でニューヨークのジャズの学校「The New School for Jazz and Contemporary Music」に入学。

彼の著書『9番目の音を探して 47歳からのニューヨークジャズ留学』(KADOKAWA)によれば「あなたがジャズピアニストになるには、ポップスで築いてきたその体に流れてる血を総入れ替えしなければならない」とまで言われながら、必死でジャズに取り組んだようです。

「藤井寺ニューヨーカー」――藤井寺の王子たち、ニューヨークへ行く。

 

藤井寺発、ニューヨーク経由、そして今

 

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1989年日本シリーズ第2戦、満員の藤井寺球場。

 

その後について。まず藤井寺球場はどうなったのか。

近鉄は1988年の「10.19」を経て、翌1989年にリーグ優勝。藤井寺球場に日本シリーズがやってきました。ナイター設備がなかったせいで、日本シリーズが開催できなかった球場にようやく。相手は巨人。

この日本シリーズで、吉井理人は全7試合中、なんと5試合投げる獅子奮迅の活躍。しかし、このシリーズ打撃不振だった巨人の原辰徳に、シリーズの行く末を決定付ける満塁本塁打を打たれてしまいます(第5戦)。

そんな藤井寺球場、そして近鉄球団の終焉は転げ落ちるようにあっけないものでした。

ナイター設備完成から13年、1997年から近鉄は大阪ドームに本拠地を移転。藤井寺球場は主に二軍の試合に使われることに。

そして2004年をもって、今度は近鉄球団そのものが無くなる。さらには球団消滅に歩調を合わせるかのように、2004年の11月には藤井寺球場の閉鎖も決定。

2006年2月から8月にかけて解体工事が行われ、約77年余りの球場の歴史を終え、現在は「四天王寺学園」という学校と大規模マンションになっています。

しかし、藤井寺球場がなくなってしばらく経った今「藤井寺ニューヨーカー」はますます元気なのです。

吉井理人は先に述べたように千葉ロッテマリーンズの監督になっています。でも試合中、威厳たっぷりというよりは「藤井寺あたりにいる野球好きのオッサン」みたいな顔でフィールドを眺めています。

そして先に述べたように私の目の前で、自然体で楽しそうにギターの腕前を披露した。「野球好きのオッサン」は「音楽好きのオッサン」でもありました。

大江千里はといえば、さる2月21日に、なんとNHK『きょうの料理』に出演。「ニューヨーク発!大江千里のハミング食堂 親子丼in NY」と題して、こちらも実に自然体で楽しそうに料理していました。

披露したのは「パプリカやズッキーニを使ったオリジナルの親子丼」「ほっこりレモン鍋」という、なかなかに独創的な料理の作り方。

妙な言い方になりますが「藤井寺あたりにいる野球と音楽好きのオッサン」「藤井寺あたりにいる音楽と料理好きのオッサン」は、二人とも長生きしそうな感じがするのです。だって彼ら、楽しそうなのだから。人生を心から満喫しているみたいなのだから。

藤井寺とニューヨークの組み合わせは最強だったんじゃないでしょうか。だから「藤井寺ニューヨーカー」は不死身なんじゃないか――ここで「藤井寺は不死身寺」などと下手なダジャレを言いたくなるのは、私も同じく「河内のオッサン」だからか。

人生100年時代を楽しそうに生きていく不死身のニューヨーカーたち。そういえば、来たる2028年は、藤井寺球場が人として生きていたら100歳になる年です。

 

<今回の紹介楽曲>

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大江千里「十人十色」

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Text:スージー鈴木